聖賢・士大夫あるいは君子
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「南洲翁遺訓」の記事における「聖賢・士大夫あるいは君子」の解説
三〇 命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。 三一 道を行ふ者は、天下挙て毀(そし)るも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。 三二 道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公は閨中(けいちゆう)にて語りし言も、人に対して言ふべからざる事無しと申されたり。独を慎むの学推(おし)て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。 三三 平日道を蹈まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕抺も能く出来るなり。平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取仕抺どころには之れ無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。 三四 作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其の跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈(だ)けは見れと申せしとぞ。 三五 人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之れを見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬られぬもの也。 三六 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修業致さず、唯个様(かよう)の言个様の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。 三七 天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗(か)ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。 三八 世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。 三九 今の人、才識有れば事業は心次第に成さるるものと思へども、才に任せて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。体有りてこそ用は行はるるなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ様になりたりとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。 夫天下非誠不動。非才不治。誠之至者。其動也速。才之周者。其治也広。才与誠合。然後事可成。 四〇 翁に従て犬を駆り兎を追ひ、山谷を跋渉して終日猟り暮し、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。 四一 身を修し己れを正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば数十人の客不意に入り来んに、仮令何程饗応したく思ふとも、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる也。夫れ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書て賜りき。 文非鉛槧也。必有処事之才。武非剣楯也。必有料敵之智。才智之所在一焉而巳。 追加一 事に当り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡そ思慮は平生黙坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当り卒爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し。
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