総合格闘技への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:13 UTC 版)
2000年6月、PRIDEへの出場が噂される最中、試合後この件について真鍋アナに問われたところ、「PRIDE? お前が出ろ、このバカ!」と一蹴。否定も肯定もせずさらに「てめーが出ろ」と蹴るような仕草まで見せた。同月にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニア7が開幕。同大会に出場し、「今年も(コソボに)寄付するよ。それから地雷撤去! 地雷撤去!」と意気込んだ。 同年7月、自身の地元において主催興行を行う。終了後、記者に「なにかある?」と問いかけておきながら、「バカヤロー、今はそれどころじゃねぇんだ。オレは興行の精算をしなくちゃいけねえし、その金でお中元を出さなくちゃいけねえんだ」とのコメントを残してさっさと控え室へ引っ込んでしまう。さらに同月、PRIDE出場問題について再び問われると「知らねえ、俺に聞くな! 倍賞鉄夫に聞け、あの金の亡者に聞け!」と発言。 同年8月、当時PRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めていたアントニオ猪木の命を受ける形でPRIDE.10へ出場。新日本プロレス所属の覆面レスラーの初めてのPRIDE参戦ということで注目を浴びたが、本名の石澤常光さらに素顔で登場しハイアン・グレイシーと対戦するもパンチの連打を浴びてTKO負けを喫した。 同年12月、INOKI BOM-BA-YEにおいて桜庭和志とプロレスルールで対決。プロレスでは極めて珍しいコーナーポスト上での腕固めで敗れた。試合後のインタビューで「この試合を振り返って如何ですか?」との問いに対し「お前が勝手に振り返れ」と答える。両者は1995年の新日本対UWFインターナショナル全面対抗戦において、タッグマッチ、シングル戦でそれぞれ1回ずつ対戦しており、ともにカシン(当時は"石沢")が勝利している。同月には中西と注目のタッグを結成するもやはり仲間割れ、「結婚おめでとう! 俺からのご祝儀だ」とのコメントを残した。 2001年7月、PRIDE.15に同じく素顔の石澤常光として出場し、メインイベントでハイアンと再戦。膝蹴りでKO勝利し雪辱を果たす。試合後にはマスクを被り「石澤はもう帰ったから俺が代わりに来た」とあくまで別人のように振る舞った。 2001年10月、東京ドーム大会で成瀬昌由とのIWGPジュニアヘビー級タイトルマッチにおいて、成瀬からの「カシンではなく、石澤常光として来い」との再三の挑発どおり、カシンとしてコールされるも、素顔の石澤でオープンフィンガーグローブをつけて花道に登場し、場内を騒然とさせる。試合は、わずか26秒で飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めによるタップアウト勝ちを収め、第41代IWGPジュニアヘビー級王座に戴冠。プロレスの試合、それも選手権試合にも関わらず秒殺という結果だが、その認知されたキャラクターと登場時のインパクトから会場は沸いた。勝利後は大人しくベルト、認定証、トロフィーを受け取り関係者と握手までしたものの、突如ベルトを投げ、認定証は破り捨て、早々にリングを立ち去る変わらぬ傍若無人ぶりを発揮。試合後にはマスクを被り「寝坊したよ。試合は?」と登場し、「石澤が勝ったの?」と相変わらず別人のように振る舞った。さらに「俺が石澤からもらったよ、ベルトは」と王者ベルトを持ち去り、「今日の試合、石澤選手が出たということに関しては?」の記者の問いに「良くやった、うん。褒めてやる」と答えた。 同年12月、INOKI BOM-BA-YE 2001で正道会館の子安慎悟を相手に総合格闘技の試合を行う。再三レスリング式の片足タックルで子安をテイクダウンするものの、そこからの攻め手が準備不足もあって無く、判定がないために引き分けに終わった。
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総合格闘技への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:13 UTC 版)
「ケンドー・カシン」の記事における「総合格闘技への進出」の解説
2000年6月、PRIDEへの出場が噂される最中、試合後この件について真鍋アナに問われたところ、「PRIDE? お前が出ろ、このバカ!」と一蹴。否定も肯定もせずさらに「てめーが出ろ」と蹴るような仕草まで見せた。同月にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニア7が開幕。同大会に出場し、「今年も(コソボに)寄付するよ。それから地雷撤去! 地雷撤去!」と意気込んだ。 同年7月、自身の地元において主催興行を行う。終了後、記者に「なにかある?」と問いかけておきながら、「バカヤロー、今はそれどころじゃねぇんだ。オレは興行の精算をしなくちゃいけねえし、その金でお中元を出さなくちゃいけねえんだ」とのコメントを残してさっさと控え室へ引っ込んでしまう。さらに同月、PRIDE出場問題について再び問われると「知らねえ、俺に聞くな! 倍賞鉄夫に聞け、あの金の亡者に聞け!」と発言。 同年8月、当時PRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めていたアントニオ猪木の命を受ける形でPRIDE.10へ出場。新日本プロレス所属の覆面レスラーの初めてのPRIDE参戦ということで注目を浴びたが、本名の石澤常光さらに素顔で登場しハイアン・グレイシーと対戦するもパンチの連打を浴びてTKO負けを喫した。 同年12月、INOKI BOM-BA-YEにおいて桜庭和志とプロレスルールで対決。プロレスでは極めて珍しいコーナーポスト上での腕固めで敗れた。試合後のインタビューで「この試合を振り返って如何ですか?」との問いに対し「お前が勝手に振り返れ」と答える。両者は1995年の新日本対UWFインターナショナル全面対抗戦において、タッグマッチ、シングル戦でそれぞれ1回ずつ対戦しており、ともにカシン(当時は"石沢")が勝利している。同月には中西と注目のタッグを結成するもやはり仲間割れ、「結婚おめでとう! 俺からのご祝儀だ」とのコメントを残した。 2001年7月、PRIDE.15に同じく素顔の石澤常光として出場し、メインイベントでハイアンと再戦。膝蹴りでKO勝利し雪辱を果たす。試合後にはマスクを被り「石澤はもう帰ったから俺が代わりに来た」とあくまで別人のように振る舞った。 2001年10月、東京ドーム大会で成瀬昌由とのIWGPジュニアヘビー級タイトルマッチにおいて、成瀬からの「カシンではなく、石澤常光として来い」との再三の挑発どおり、カシンとしてコールされるも、素顔の石澤でオープンフィンガーグローブをつけて花道に登場し、場内を騒然とさせる。試合は、わずか26秒で飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めによるタップアウト勝ちを収め、第41代IWGPジュニアヘビー級王座に戴冠。プロレスの試合、それも選手権試合にも関わらず秒殺という結果だが、その認知されたキャラクターと登場時のインパクトから会場は沸いた。勝利後は大人しくベルト、認定証、トロフィーを受け取り関係者と握手までしたものの、突如ベルトを投げ、認定証は破り捨て、早々にリングを立ち去る変わらぬ傍若無人ぶりを発揮。試合後にはマスクを被り「寝坊したよ。試合は?」と登場し、「石澤が勝ったの?」と相変わらず別人のように振る舞った。さらに「俺が石澤からもらったよ、ベルトは」と王者ベルトを持ち去り、「今日の試合、石澤選手が出たということに関しては?」の記者の問いに「良くやった、うん。褒めてやる」と答えた。 同年12月、INOKI BOM-BA-YE 2001で正道会館の子安慎悟を相手に総合格闘技の試合を行う。再三レスリング式の片足タックルで子安をテイクダウンするものの、そこからの攻め手が準備不足もあって無く、判定がないために引き分けに終わった。
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