紀元前214年:ハンニバル、三度目のノラ攻略に失敗
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「カプア包囲戦」の記事における「紀元前214年:ハンニバル、三度目のノラ攻略に失敗」の解説
軍事行動の一貫性を維持するため、ファビウスとマルケッルスは2人とも執政官に再選された。また、6個軍団が増設され、ローマの総兵力を合計で18個軍団とすることも決定された。この結果はカプアの市民を不安にさせ、ハンニバルの元にカプアへの帰還を要請するための使節が送られた。ハンニバルも、ローマ軍に行動を邪魔されないよう急ぎ行動する必要があると考え、アプリからカプアを見下ろすティファタ山の野営地に移動した。ヌミディア兵とイベリア兵は野営地とカプアの防衛のために残され、残りの兵はアヴェルヌス湖に向かった。ハンニバルはそこから南東4キロメートルにあるプテオリのローマ守備軍を攻撃する計画であった。 ファビウスはハンニバルがアプリを離れカンパニアに戻ったことを知ると、直ちにローマを出発し彼の軍に合流した。続いてティベリウス・グラックスの元に使者を派遣し、軍をルケリア(en)からベネヴェントゥムに移動させた。法務官を務めていた息子で同名のクイントゥス・ファビウス(en)にアプリアに行きグラックスの代理を務めるよう命令した。全ての軍の指揮官達は所定の場所に向かった。 アヴェルヌス湖のハンニバルの元に南イタリアのタレントゥムらの使者が訪れ、街をローマから解放して欲しいとの懇願を受けた。ハンニバルは時機を見てその実行を約束した(実現するのは2年後の第一次タレントゥム攻城戦である)。古いギリシャ殖民都市であるタレントゥムは裕福であるだけでなく海に面していた。当時アドリア海対岸のマケドニアのピリッポス5世はカルタゴと同盟関係を結んでいた。やはり港湾都市であるブリンディジは依然ローマとの同盟を維持していたため、タレントゥムはピリッポス5世が陸軍派遣を決意した場合、それを受け入れるに最適であった。ハンニバルはクーマからミスヌム岬付近までを略奪し、プテオリに向かい攻撃の準備を整えた。プテオリの守備兵は6,000であった。街は地形的に攻略が難しく、また防御体制も整っていた。ハンニバルは3日に渡って攻めたが、占領できる可能性は無かった。結局包囲を解いてネオポリスに向かい、付近を略奪した。 マルケッルスがノラ近くまで達すると、一般市民の中には再び反ローマ・反ノラ元老院感情が出来ていることを知った。実際、親カルタゴ派はハンニバルに使者を出し、降伏を申し出ていた。この親カルタゴ派に反対するノラ貴族は、マルケッルスに対応を依頼した。マルケッルスはヴォルトゥヌス川を越えることにやや難儀はしたものの、1日の内にカレスからスエッスラに移動した。翌日の夜にノラに歩兵6,000と騎兵300を急行させ、街を占領してノラ元老院を保護した。 同じ頃、ファビウスはカシリウムに到着し、そこを守備するカルタゴ軍への攻撃準備ができていた。他方、グラックスとカルタゴのハンノは、ほぼ同時にベネヴェントゥム付近に到着していた。続く戦闘はグラックスの勝利に終わり、リウィウスによると15,000のカルタゴ兵が戦死するか捕虜となった(第一次ベネヴェントゥムの戦い)。 ネオポリス付近を略奪した後、ハンニバルはノラに向かった。マルケッルスはこれを聞き、スエッスラに残っていた法務官のマルクス・ポンポニウス・マトの軍を増援として直ちにノラに呼び寄せた。今回もハンニバルはノラを落とせず撤退せざるを得なかった(第三次ノラの戦い)。翌日にローマ軍は出撃したが、ハンニバルは野営地から動かなかった。3日目の夜、ノラ占領の見込みはないと判断したハンニバルは、タレントゥムに向かった。 これらの戦闘はベネヴェントゥムとノラの間で起こったが、ファビウスは2,000のカンパニア兵と700のカルタゴ兵が守るカシリウム近くに野営していた。カシリウム側は奴隷と一般市民も武装して、ローマの野営地を襲ったが、これは失敗した。ファビウスはマルケッルスにノラに適当な数の守備兵を残してカシリウムに来るか、あるいはベネヴェントゥムのティベリウス・グラックスを派遣するように依頼した。 マルケッルスはノラに守備兵2,000を残してファビウスに合流した。すなわち、2人の執政官が協力してカシリウムを攻撃したこととなる。しかし攻撃によるローマ兵の損害は少なくなく、ファビウスは攻撃を中止した。他方、マルケッルスは撤退をせず、攻城兵器を準備した。これを見たカンパニア兵は、ファビウスに対して無血開城して近郊のカプアに撤退することを申し出た。しかしながら、カンパニア兵が城外に出ると、マルケッルスはこれを虐殺し、さらに城内に突入して殺戮を続けた。50人のカンパニア兵のみがファビウスの元に駆け込み、無事カプアに行くことが出来た。カンパニア兵とカルタゴ兵捕虜はローマに送られ監獄に閉じ込められた。市民は近郊の都市に移された。 一方、グラックスはベネヴェントゥムで大敗していたハンノの再起を阻止するため、南イタリアのルカニア(en)に同盟国軍の兵の一部を派遣し、カルタゴ野営地近くを略奪させた。しかしローマ軍が分散しているところをハンノに攻撃されて多少の損害を受けた。ハンノはグラックスに追撃されることを恐れ、その後ブルティウムに撤退した。グラックスの本軍はアッピア街道を進み、カルタゴ側の都市となっていたカウディウム(現在のモンテサルキオ)を破壊した。ファビウスもカルタゴ軍に寝返った都市を攻撃するためにサムニウムに向かい、コンブルテリア、テレシア、コンプサ、ファギフラ、オビタニウムも破壊された。ルカニアのブランダ(en)、アプリアのアイカ(現在のトローイア)はカルタゴ軍に占領されていた。これらの都市は奪回され、カルタゴ軍25,000が戦死、170が捕虜となった。捕虜はローマに連行され、タルペーイアの岩から突き落とされて殺された。マルケッルスはノラに戻った後病気を得、これらの作戦にはほとんど参加できなかった。
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