紀元前215年:クーマエとノラ
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「カプア包囲戦」の記事における「紀元前215年:クーマエとノラ」の解説
春になるとカルタゴ軍はカシリヌムに戻り、数ヶ月にわたって包囲を続けた。同じ頃、ローマの独裁官であるマルクス・ユニウス・ペラはそこから遠くないテアヌム・シディシヌムに冬営していた。マルケッルスも前執政官(プロコンスル)としてカレス(en)で編成された2個軍団を率い、スエッスラに移動した。また、カンナエの残存兵は法務官アッピウス・クラウディウス・プルケルが率いてシチリアに渡り、逆にシチリアにいた軍団がローマに戻された。 新たな2人の執政官、クィントゥス・ファビウス・マクシムスとティベリウス・センプロニウス・グラックスはそれぞれ軍を率い、ファビウスは「奴隷兵士」と同盟国兵士25,000名を率いてペラの野営地を引き継いだ。マルケッルスもノラの防衛のためスエッスラから移動した。 他方、マリオ・アルフィオを指導者とするカンパニア人達はクーマエをローマとの同盟から離脱させるべく、諜略を用いた。グラックスはこの計画の情報を得ると外交使節を送り、3日後にはクーマエから4.5キロメートル程の距離にあるハマスでクーマエの元老院議員と会った。グラックスは篭城に備え、クーマエに食料を可能な限り運び入れ、貯蔵するように提案した。一方で、全軍をハマスに移動させた。続いて行われた戦いはローマ・クーマエ連合軍の勝利に終わり、カンパニア側の戦死は2,000を超え、マリオ・アルフィオも戦死した。ローマ側の戦死者は100人以下であった。グラックスは敵の野営地を一掃した後、ティファタ山(en)に野営していたハンニバルが急襲をかけてきた場合に備えて、クーマエの城壁内に撤退した。 ハンニバルは翌日にクーマエに到着し、攻城兵器を備え付けて街を包囲した。ファビウスはカレスのカストラ(防衛拠点)に駐屯していたが、占いの結果が凶であるとして、ヴォルトゥヌス川を越えることは無かった。グラックスは反撃の準備を行った。結局ハンニバルは包囲を解き、ティファタ山に引き上げた。 一方、ファビウスは罪滅ぼしの儀式を完了するとヴォルトゥルヌス川を渡り、軍を率いてカルタゴ側に寝返っていたクブルテリア(it)、トレブラ(en)アウスティクラ(おそらくは現在のサティクラ)の占領に向かった。これらの都市では多くのカルタゴ軍捕虜を得た。その後、スエッスラを見下ろすクラウディアナのカストラに向かった。到着後、マルケッルスにノラに向かいそこを守備するように命令した。ノラでは元老院はローマ側につき、一方民衆はハンニバルに降伏しようとしていた。夏の間、マルケッルスはヒルピニ族、サムニウム人、ガリア人に対して何度も襲撃を行い、かってサムニウムがローマに敗れた際の記憶を思い出させた。このため、ヒルピニ族やサムニウム人はハンニバルに使節を送り、軍事的保護を求めた。彼らは、マルケッルスの略奪に対してカルタゴ軍が自分たちを見捨てていると抗議した。ハンニバルは彼らを安心させ、土産を持たせて返し、直ちに反撃を行うと約束した。ハンニバルはティファタ山に少数の守備兵を残し、主力軍を率いてノラに向かった。ノラ近郊で野営し、ブルティウムからのハンノ(en)の援軍と合流することとした。 マルケッルスは、その後もサムニウムの略奪を続けていたが、常に退却路は確保していた。全ての行動は、ハンニバルと対しているかのように慎重かつ良く分析されたものだった。カルタゴ軍の接近を察知すると、マルケッルスは直ちに兵をノラの城壁内に撤退させた。カルタゴ軍は周囲の略奪を始めたが、そこにローマ軍が襲いかかり(第二次ノラの戦い)、優勢に戦いを終えた。その日の戦いで5,000人のカルタゴ兵が戦死し、600人が捕虜となった。ローマの損害は1,000以下であった。当初はカルタゴに好意的だったノラの市民も、ローマを見直した。ハンニバルはノラから撤退し、ハンノをブルティウムに送り、自身はアプリアのアルピ(en)で冬営に入った。 ファビウスはハンニバルがアプリアに向かったことを知ると、ノラとネオポリスにあった穀物を全てスエッスラの彼の野営地に運び入れた。その後守備兵を残し、軍をカプアへ向かわせた。カンパニアでは焦土作戦を実施し、カプア軍が城外に出て戦うように仕向けた。 カプア軍の兵力は6,000であり騎兵は優秀であったが、歩兵は戦力としては期待できなかった。このため、まずは騎兵が攻撃を開始した。リウィウスは、カプアの勇敢な騎士がローマの騎士に一騎討ちを挑んだと述べている。この決闘は決着がつかなかったが、一戦を交えた後、その騎士は城内に撤退した。 このエピソードの後、ファビウスは軍を撤退させ、カプア人に種まきを許し、略奪も行わなかった。その後スエッスラに戻り冬営を行った。マルケッルスは適切な数の守備兵をノラに残し、同盟都市に負担をかけすぎないように残りの兵をローマに戻した。もう1人の執政官であるグラックスはその軍団をクマエからアプリアのルセラに動かし、法務官マルクス・ヴァレリウス・レヴィヌス(en)をブリンディジウムに派遣し、マケドニアのピリッポス5世に備えさせた。 紀元前215年の終わり、ファビウスはポッツオーリに陣地を構築して守備兵を置き、その後ローマに戻った。そこで翌年の執政官に再選された。
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