紀元前216年:カプア、ローマを離れカルタゴに付く
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「カプア包囲戦」の記事における「紀元前216年:カプア、ローマを離れカルタゴに付く」の解説
ハンニバル自身は軍の大部分を率いてカンパニアに向かい、カプアとの間にローマとの離脱交渉を行った。カプアはローマに次ぐ第2の都市であり、この頃から100年ほど前の紀元前312年にはアッピア街道でローマと結ばれており、依然として重要性が高かった。 歴史家のティトゥス・リウィウスによると、100人以上のカルタゴ人が街に入り、カプア側の代表であるパクウィウス・カラウィウスとの交渉を行った。合意内容は以下のようなものであったと考えられる。 カルタゴ高官もカプア市民以上の権利は有さない カプア市民はその意思に反して徴兵されたり訓練を受けたりすることはない カプアはその法律と裁判を維持する ハンニバルはカンパニアに300人のローマ捕虜を送り、シチリア島で捕虜になったカンパニア人と交換する カンパニア人達は、ローマの知事だけでなく何人かのローマ市民を保護を名目にして逮捕し、浴場に監禁した。その後浴室の温度を異常に上げたため、これらの人々はみな死亡した。ハンニバルとの同盟に反対した少数の人々は追放され、キュレネに到着した時点でプトレマイオス朝のファラオであるプトレマイオス4世に保護され、ローマに送り返された。 一方、ハンニバルはカプアに入城し、指導者や裕福な市民の歓迎を受けた。その中の1人がハンニバルを襲撃しようとしたが、直ちに捕らえられて殺された。ハンニバルは元老院議員を召集して、カルタゴとの同盟関係を結んだことに感謝し、戦闘が起こった場合はカプアを防衛することを約束した。 ハンニバルはカプアとの同盟を結んだ後にカンパニアでの作戦を再開した。ネオポリスの攻略は失敗に終わったが、続いて無抵抗での降伏を期待して軍をノラに向けた。しかし、ハンニバルの到着前に法務官(プラエトル)マルクス・クラウディウス・マルケッルスが先に街に入っておりハンニバルを攻撃してきた(第一次ノラの戦い)。ハンニバルはノラの攻略を諦め、ヌケエリア(現在のノチェーラ・インフェリオーレ)に向かい、そこを略奪して火を放った。 カルタゴ軍は再度ノラを攻撃したが、3,000の兵を失ってこれも失敗し、アケラに向かった。マルケッルスはノラの城門を固く閉ざし、歩哨に誰も街から出ないように見張らせた。次に敵と内通した反逆者70人を死刑にした。これらの人々の財産は没収され、元老院での許可のもとローマのものとした。その後ノラを出てスエッスラ(en)を見下ろす高台に野営した。 ハンニバルは当初アケラを無抵抗で降伏させることを望んだ。しかし、市民のローマに対する忠誠心が強いことを知り、攻城戦を開始した。しかし街の防御は不十分であり、多くの市民が夜中にカルタゴ軍の塹壕を超えて脱出し、まだローマとの同盟関係を維持している近隣の都市に逃げ込んだ。ハンニバルはローマの独裁官に選出されたマルクス・ユニウス・ペラがカシリヌム(en)に新たな軍団を向かわせていることを知り、カプアでの騒乱を防ぐために、アケラを破壊し火を放った。ハンニバルはローマ軍の動きを予測して軍をカシリヌムに向けた。その時点でカシリヌムの守備兵はプラエネステ兵570名と少数のローマ兵、加えてカンナエでの敗北後に増強された460名のみであった。食料不足の不安はあったものの、三方をヴォルトゥヌス川に囲まれたこの小さな街を守るには十分と考えられていた。 ハンニバルはカシリヌムに接近し、イサルカという指揮官の下にアフリカ兵を派遣し、降伏交渉を行わせた。交渉は失敗して戦闘が始まったが、ローマ軍は何度かカルタゴ軍の攻撃を撃退した。冬が近づくとハンニバルは野営地の防御を強化し、カシリヌムのローマ軍に攻略を諦めていないと思い込ませ、実際にはカプア近郊に軍の大部分を撤退させた
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