第13番 ロ短調 作品119
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「夜想曲 (フォーレ)」の記事における「第13番 ロ短調 作品119」の解説
1921年12月21日-31日作曲。1922年、デュラン社から出版。初演は1923年4月28日、国民音楽協会の演奏会においてブランシュ・セルヴァの独奏による。フェルナン・マイヨ夫人に献呈された。 夜想曲第13番は、夜想曲だけでなくフォーレのピアノ創作の最後を飾る作品となった。1920年10月にパリ音楽院の院長職を辞任したフォーレは、翌1921年の春までにピアノ五重奏曲第2番、舟歌第13番などを完成する。夏の間は病気のために作曲を中断するが、秋にはチェロソナタ第2番、歌曲集『幻想の水平線』が完成する。夜想曲第13番は、これらの傑作につづいてパリで書き始められ、同年末に南フランスの避寒地ニースで完成された。翌年の1月2日付けで妻マリーに宛てた手紙にフォーレは次のように記している。 「君が私の楽譜に口づけしてくれたお陰で、私に幸運がもたらされました。というのも、31日の夜に、ちょうど夜想曲第13番が出来上がったからです。」 — 1922年1月2日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙 これらの作品は、悪化する難聴と闘いながら作曲された。ネクトゥーは、1914年から1921年に書かれたフォーレのほとんどすべての作品は、彼一人にとどまらず、フランス音楽の最高傑作に数えられるとする。とりわけ1919年から1921年にかけての3年間は、フォーレにとって生涯でももっとも重要な実りある時期であり、この夜想曲第13番の完成によってその幕を閉じることになった。フォーレはこの後、高齢と相次ぐ病気のために仕事の能力が著しく低下した。ポール・デュカスに宛てた1922年4月21日付の手紙で、フォーレは次のように語っている。 「私はこの4ヶ月間で、ワーグナーのグルペット(16世紀イタリアの装飾音の一種、いわゆるターン)に負けないくらい歳をとりました。」 — 1922年4月21日付、ポール・デュカスに宛てたフォーレの手紙 フォーレにはもう3年足らずしか生涯の時間が残されておらず、この作品の後には、ピアノ三重奏曲と弦楽四重奏曲があるにすぎない。 夜想曲第13番は、フォーレの夜想曲の中では夜想曲第6番と並んでもっとも感動的かつ才気溢れるものであるとともに、フォーレの晩年の20年間に書かれたピアノ曲の中では、即興曲第5番と並んで親しまれている。この作品では、ピアノ五重奏曲第2番と同じように、瞑想と力強さという相矛盾する二つの要素が完璧な形式の下に結びつけられており、楽想相互間の内的関連と緊張の一貫した支配、ピアノ特有の語法を超えた抽象性への指向も大きな特徴となっている。 曲は三つの中心主題から構成されており、中音域で遠慮がちに歌われる旋律、雄大かつ執拗に繰り返される、運命の啓示のような動機、アレグロで大河のように滔々とうねり出す中間部分からなる。フォーレはこの曲に荘厳で重々しい性格を示すロ短調を採用しているが、彼のレクイエムでも「オッフェルトリウム」において死者の嘆願を表すためにこの調を用いていた。 冒頭の対位法的な部分では、四声で厳格でありながら表現力に富んだ書法がバッハを思わせる。第2主題はより大胆で旋律的であり、この主題に用いられている付点リズムの動機は曲全体にわたって現れる。中間のアレグロ部分は嬰ト短調。華やかなアルペジオの伴奏を軸にして展開する主題は冒頭主題からの派生による。コーダでは哀愁をたたえつつ、第2主題のリズム動機が鳴り響き、やがて青みがかった夜のゆったりした安らぎの中に溶け込んでゆく。 この曲について、ジャンケレヴィッチは、「晩年の峻厳な様式の作品」であり、決して作曲者の生涯を物語るものではないが、人生の本質的な意味について、回顧的かつ理想的な立場から語ってくれるとする。 なお、献呈されたフェルナン・マイヨ夫人ルイーズは、音楽愛好家の銀行家夫人。ルイーズが若い音楽家のために設立した奨学金は、作曲家アルトゥール・オネゲルやピアニストヴラド・ペルルミュテールらが受けている。ルイーズは、晩年のフォーレを夏の間アヌシー・ル・ヴューにある家に招き、フォーレのピアノ五重奏曲第2番、チェロソナタ第2番、ピアノ三重奏曲はパリにある彼女のサロンで初演されている。
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