第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって」の解説
ポーランドの蜂起はヨーロッパ中で自由主義・ナショナリズムを活気づかせた。デンマークでもナショナリズムが高まり、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を再びデンマークに有利に設定し直そうという世論が強まった。とりわけ1863年12月にクリスチャン9世がデンマーク王に即位するとデンマークのドイツ連邦に対する強硬外交が目立つようになった。ドイツ連邦各国でもドイツ・ナショナリズムが高まり、フリードリヒ8世がアウグステンブルク公としてシュレースヴィヒ・ホルシュタインの統治者に擁立され、両国は一触即発状態になった。 1863年7月、パーマストン卿は庶民院での演説で「イギリスの責務はデンマークの独立・統一・権利を守ることである。もしデンマークの独立が侵されることがあれば、これに抵抗するのはデンマーク一国だけではないだろう。」と演説したが、ヴィクトリア女王が「デンマークのためにドイツ諸国と戦争するなど馬鹿げている」と強硬に反対したため、積極的な介入はできなかった。 1864年2月1日よりプロイセン・オーストリア連合軍がシュレースヴィヒ進攻を開始し、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発した。デンマークは兵力でも装備でもドイツに劣ったが、デュッペル要塞に籠城する作戦が功を奏して、戦況は膠着状態となった。パーマストン卿はオーストリア海軍が北海に出てくることを警戒し、参戦をちらつかせてオーストリアを牽制したが、ヴィクトリア女王の不介入方針は変わらず、「これ以上好戦的な方針を取り続けるなら議会を解散する」とパーマストン卿を脅迫するようになった。また参戦は軍事的にも障害が多かった。イギリス陸軍はドイツ諸国の陸軍と比べると脆弱であったし(ビスマルクは「イギリス陸軍など、もしドイツに上陸してきても地元警察に逮捕させればよい」などと豪語していた)、イギリス海軍は精強ながら世界各地に散らばっており、ただちに北海に召集するのは難しかった。 そこでパーマストン卿は国際会議によって事態の収拾を図ろうとした。この提案に対してプロイセン、オーストリア、フランス、ロシアは支持を表明した。デンマークははじめ反対したが、やがてデュッペル要塞で幾ら頑張っていても列強の救援が得られないと悟り、国際会議開催に賛同した。こうして1864年4月25日から外相ラッセル卿を議長とするロンドン会議が開催されたが、パーマストン卿もラッセル卿も親デンマーク的な態度を取り過ぎて反発を買い、さらにヘルゴラント海戦でデンマーク海軍がオーストリア海軍に勝利したことでデンマークの態度が強硬になり、加えてドイツ側も譲歩の気配を見せなかったため、会議は難航した。またパーマストン卿はこの頃、持病の痛風が悪化して自宅療養が多くなっていたため、積極的な調停に乗り出せなかった。 6月15日の閣議では会議の進展を絶望視したラッセル卿が、会議をフランスに任せてはどうかと提案したが、パーマストン卿は却下した。この際に彼はラッセル卿に「フランスはヴェネツィアからオーストリアを追いだし、ライン川左岸に勢力を拡大しようとしている連中だ。彼らのことなど信用できない」という私見を述べている。ヴィクトリア女王の日記によれば、パーマストン卿はフランスがイギリスを対ドイツ戦争の泥沼に陥れて、その間にフランスはライン川沿岸を獲得し、イタリア全土で革命を起こすつもりだろうと懸念していたという。 6月24日と6月25日の閣議では会議決裂の場合イギリスはどうすべきかが論じられたが、最終的にはイギリスはこの問題から手を引くことが閣議決定された。ロンドン会議は6月25日に決裂し、デンマークとドイツ連邦の戦争は再開された。戦況はドイツ軍優位に進み、7月20日にデンマークは降伏し、シュレースヴィヒとホルシュタインを放棄することとなった。 ロンドン会議失敗により7月5日から7月6日にかけて貴族院と庶民院双方でパーマストン卿不信任案決議案が提出されたが、庶民院の採決では賛成295票、反対313票でかろうじて不信任案は否決された。一方貴族院では賛成177票、反対168票で不信任案が可決された。しかしパーマストン卿は貴族院より庶民院の方が重いとして総辞職や解散総選挙を拒否した。
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