空素沼の利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:10 UTC 版)
空素沼の水質は飲料にも適し、寒中はこの沼より良質の天然氷を産した。1868年(明治元年)生まれの土田源助が採氷を始め、その後寺内の部落総代も事業として一時やったものだという。1911年(明治44年)に坪内友吉が、氷の貯蔵小屋を建て本格的に採氷に取り掛かった。氷の需要は年々増加するものの、人造製氷が盛んになってきたため、坪内氏も昭和に入ってから製氷業に転向し、氷切りは見ることができなくなった。1912年(大正元年)には土崎港消防用水池としても使用された。1969年(昭和44年)11月1日に秋田県水産試験場が養鯉池とした。1912年(大正元年)7月12日、空素沼に秋田県水産試験場養魚場を設置、鯉1万4千尾、紅鱒3万5千尾を放養する。 土崎の消火水道は大正13年から計画されたが、水を得ることが困難だということがわかり、1929年(昭和4年)に空素沼から直接水を引くことが課題となった。寺内村の人々は罰があたるからと言って反対をしたが、公益のためであるから罰もあたらないだろうということで承諾を得て、森澤技師が発案する耐圧コンクリート管(ヒューム管)を使用し、1930年(昭和5年)に工事費5万5千4百円で完成した。土崎は明治期に8回の大火に襲われ、大正期にも1922年(大正11年)1月2日に家屋が123戸が火災で焼き払われ、1927年(昭和2年)4月3日には家屋が74戸土蔵等が54棟、6月24日には家屋が194戸が土蔵等が45棟が焼き払われる火災にあっていた。土崎港町の町長の加賀谷保吉は防火の重要性を認識し、防火用水の設置に尽力した。空素沼周辺住民の「神様を祭っている神聖な沼の水を引き抜いてゆこうなどとは、神罰の程も恐ろしい」という反対意見には、空素沼神社の修理費等を奉納することを申し出る。また、空素沼の水は将軍野遊園地のプールにも使用するため、平時にはみだりにこの水は使わないことと、管内の水を腐敗させないための細管放流は認める契約を将軍野遊園地の所有者の栗原氏と交わした。さらに、水道技師の森沢氏が工事の手法に工夫を凝らし鉄矢板で土止めをして決壊の心配をなくした。まだ工事のなかば1930年(昭和5年)夏の火事があり、この水道からの水で火災はみるみる消えていった。それ以降、土崎は一度も大火災に至っていない。 秋田高校水泳部は1922年(大正11年)の創設以来、下浜海岸や空素沼、雄物川などで練習をしてきた。水泳部はプールがなかった時代には空素沼や将軍野遊園地で水泳を行った。秋田高校水泳部同窓会の紫水会は、2021年時点で空素沼での練習を経験した年代の卒業生で構成されている。また、将軍野遊園地の水は近くの空素沼から引かれていた。 大正、昭和期に活躍した木版画家の川瀬巴水は関東大震災後、全国を旅して連作28点を制作した。1927年(昭和2年)に川瀬は木版画旅みやげ第3集を作成、その中の1点に「秋田空巣沼」がある。木々や水面、夏の空と雲など空素沼の色鮮やかな風景が捉えられている。
※この「空素沼の利用」の解説は、「空素沼」の解説の一部です。
「空素沼の利用」を含む「空素沼」の記事については、「空素沼」の概要を参照ください。
- 空素沼の利用のページへのリンク