空素沼神社
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空素沼神社の主神は辛国息長大姫大目命で、陪神は高龗神である。辛国息長大姫大目命は外国から来たという珍しい神である。郷土史家の伊藤鉄太郎は新羅の神、外国の神と言われる神が祀られていることから、古代秋田城の一角に鎮座する空素沼神社は新羅などの外国との関わりがあったのではないかと指摘している。 この沼には3つの頭を持つ龍神が住むといわれ、古老は「砂が竜巻のように舞い上がる様子を見たものだ」と言っている。佐竹義和の時代に大旱魃があった。藩主は名僧の誉たかかった、補陀寺の徳善、赤田の長谷寺の是山泰覚、天徳寺の義産に、この沼の主に雨乞いの祈りを籠めたところ霊験あらたかであったのでここに龍神を祭った。明治後空素沼神社と称している。天徳寺の「天徳寺由来記」にはその時の様子が記述されている。天徳寺の義産方丈は大雲請雨経の法を修し、7昼夜の祈祷をした。満願の日に、炎天下だったのに急に雨が降ってきた。3日3晩の雨で田畑は潤った。空素沼神社には知行30石が与えられ、祈祷の様子は「祈雨法壇荘厳図」として天徳寺に所蔵されている。祈祷の年月は文化7年(1810年)6月だと記述されている。石井忠行の『伊豆園茶話』では「寺内村の烏沼が今のように大きく水を湛えたことは、長山森晃の『耳の垢』に記載されていたのを、秋藩旧話に転載している。そのことを知らないのか、文政の始頃に天徳寺の義産和尚が竜神の宮を建てて(元々あったのか、和尚が新たに勧請したのかは不明)、字を空素沼に改め社領を30石追加した。この頃は常に参拝する人もいて、祭り(7月22、23日)には接待もあって特に賑やかだった。天保の頃はこうであったが、その後次第に衰えた。心願ある者は、餅を一臼ついて竜神にそなえるとこの沼に入れる人もいた。沼には亀がいてこの餅を食べて育ちが早いという。その頃は、この亀を獲っては神の祟りがあるというので取らなかったが、近年では釣って獲るものも多い。祭式の時の図を掛けものにして天徳寺にある。7月17日には人に見せる」とある。 三禅師の法力で大雨が降った後、竜神を烏沼の付近に堂宇を建てて祀った。その時、三頭の竜を作って安置した。明治維新後に竜神を廃してある神霊を祀り、空素沼神社と改称し、竜を天徳寺に預けた。明治35-36年頃、土崎の那波小市が湖岸に堂宇を建てて、天徳寺より竜を譲り受けて安置し、竜神堂として祀った。 1872年(明治4年)にも5月から日照りが続き、船木小弥太という神主が空素沼の龍神に雨乞いを行ったが雨の量が不足していたので、西来院 (秋田市)の住職玄牛に頼み書状を龍神に送った所6月24日になりご利益があったという。 1881年(明治14年)御影石の手洗石を沼から揚げる。沼に手洗石が沈んでいることを長谷川作蔵が若者に加勢を頼み、若者たちは沼に潜り綱2本を仕掛け引き上げたもの。裏面に文政11年(1828年)8月と掘られていて、空素沼神社の前方右側に安置されている。1897年(明治30年)、空素沼神社の社殿が造営される。1901年(明治34年)に余島法生がお宮を建立する。 現在、古四王神社の道路沿い北西に社号標と第一の鳥居、手洗石がある(北緯39度44分16.5秒 東経140度04分50.9秒 / 北緯39.737917度 東経140.080806度 / 39.737917; 140.080806)。この参道口の社号標は荻津勝章により1911年(明治44年)に書かれた。また、道を進み神社前には第2の鳥居がある(北緯39度44分21.7秒 東経140度05分14.36秒 / 北緯39.739361度 東経140.0873222度 / 39.739361; 140.0873222)。この先に3基の鳥居があり、奥に社殿がある。社殿右側奥には空素沼に通じる道があり、途中には石碑が並ぶ所があり石地蔵もある。小野小町塚もある。社殿の右には2基の手洗鉢がある。 社殿に向かって左側の松林の中に直径が5から6メートルで、高さが1メートルの空素沼古墳と称する中世の墳墓がある。しかし、高さ2.4mの小円墳状のマウンドを有した空素沼2号墳は発掘調査の結果、近世以降に構築された信仰的な塚と判断された。
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