神の御名による救い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 10:15 UTC 版)
御名による神との出会い、すなわち聖霊の内住体験は、聖イエス会の最も特徴的なものである。御名を呼ぶという宗教実践をともなって神を礼拝する信仰は、大槻によれば、創世記にまで遡ることができる。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。 —創世記4章26節 ユダヤ教における神の御名に対する理解に関してはen:Names of God in Judaismを参照。神の御名を呼ぶ行為は、旧新約聖書全般に現出しているといい、特に次の聖句などを重要な例として挙げる。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 —ローマの信徒への手紙10章13節 また次の聖句にあるように、原始キリスト教徒は「この名を呼び求める者たち」として知られていたという。 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」 —使徒言行録9章21節―ダマスコの人々がパウロを指して 次の聖句などと合わせて、この習慣が原始キリスト教会に起源を持つものであるとされている。 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 —コリントの信徒への手紙一1章2節 これらの聖句にある「名を呼び求める」とはすなわち、大槻の見いだした「12の御名」を口に出して呼び求めることであるという。大槻は、次の聖句を元に、神による救済・新生は、イエスを神の子・唯一の救い主と信じその名前を呼ぶ行為(教団の言葉では「御名の連祷」)の結果、聖霊の内住を体験することのみであると定めている。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。ヨハネによる福音書20章31節 換言すれば、イエス・キリストに対する正統信仰を公言し、その名前である「御名」を呼ぶ行為によってのみ得られる聖霊内住体験がなければ、「死後の裁きから間逃れ天国へ行ける保証=永遠の命」は持てない、という内容である。そのため信徒はまだ「救われていない」家族友人知人等に、「聖霊の内住」を体験してもらうための布教活動を行っている。 具体的には、神の名前「御名」を唱えることが死後の裁きから救われるのための唯一の手段と伝えられ、聖イエス会の礼拝及び信徒の個人の礼拝においては、必ずこの「御名」が唱えられる。信徒になると礼拝への参加が義務とされる。 大槻はこの「御名による神との出会い・聖霊の内住」が聖イエス会独自のものであることを繰り返し強調し、真の救済・新生の手段は聖イエス会にしか与えられておらず、神から峻別された少数精鋭集団であること、各自が神から特別に選ばれた存在であることを自覚するよう促した。 イエスが自身を唯一の神であることを示すものとしての名前(神としての特徴)を宣言したことに関しては、en:Ego eimi#Modern Evangelical exegesisを参照。 聖書訳の変化による混乱もあり根拠は不確かであるが、世界に存在するクリスチャンの中で大槻武二だけが神の導きにより12の御名を独自に発見できたとされ、このことが教団の核となり大槻は予言者の再来として初期の信者より崇拝されていった。 その12の御名は次の通り。なお、日本聖書協会の文語訳聖書(JL)における訳文に異同がある場合、参考までにJLの該当箇所やその差異を示す。 我は全能の神なり 創世記17章1節。 我は有て在る者なり 出エジプト記3章14節。 我はシャロンの野花、谷の百合花(ゆり)なり 雅歌2章1節、JLは読点「、」なし。 我は主なり イザヤ書42章8節、JL「われはヱホバなり」。 同43章13節、JL「われは主(しゅ)なり」。 ほか。 我は始めなり終わりなり イザヤ書44章6節、JL「われは始(はじめ)なりわれは終(をはり)なり」。 ヨハネの黙示録22章13節、JL「我(われ)はアルパなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、始(はじめ)なり、終(をはり)なり、」。 言は神なり ヨハネによる福音書1章1節、JL「言(ことば)は神(かみ)なりき」。 我は生命(いのち)のパンなり ヨハネによる福音書6章48節。 我は世の光なり ヨハネによる福音書8章12節、JLは「我(われ)」ひらがな。 我は復活(よみがえり)なり生命(いのち)なり ヨハネによる福音書11章25節、JLは「生命(いのち)」の前に読点「、」あり。 我は道なり真理なり生命(いのち)なり ヨハネによる福音書14章6節、JL「われは道(みち)なり、眞理(まこと)なり、」。 神は愛なり ヨハネの手紙一4章16節 我は輝ける曙(あけ)の明星なり ヨハネの黙示録22章16節、JL「我(われ)はダビデの萠蘖(ひこばえ)また其(そ)の裔(すゑ)なり、輝ける曙(あけ)の明星(みやうじやう)なり」
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