神の平和・神の休戦運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「神の平和・神の休戦運動」の解説
10世紀末の南フランスの教会では、領主層のフェーデ(私闘)から婦人、子供、商人、巡礼者、聖職者、農民などを保護するために暴力を抑制しようとする「神の平和」運動が起こった。これは農民の財産や労働、商人の活動を保護しようという意図をもち、平和攪乱者に対して破門を下すとともに、農民が武器を持って戦うことも正当化するものであった。11世紀半ばまでフランドル、北フランスにも拡大した。ブールジュでは平和侵犯者に対し15歳以上の教区民全員が武装闘争を義務づけられ、平和部隊は貴族に幾度か勝利を収めたが、自家撞着をきたし頓挫した。その後、一定の日に限って武力行使を禁ずる「神の休戦」運動がおこり、11世紀末までにスペイン、フランス、イタリア、ドイツにも拡大したが、国王の平和立法や十字軍運動に吸収された。 一方ドイツではこの平和運動に王権が積極的な役割を演じ、時期を限ってフェーデを禁ずるラント平和令を出した。このラント平和令はのちには永久化されて、中世的な自力救済に基づいた私刑主義を非合法化し、公権力を創出するものとなった。 「神の平和」運動における秩序と正義に基づ く普遍的共同有機体 (universal cooperative organism) は近代の国家主権の観念の礎石ともなった。
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