神の属性
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シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形であれ、体を持っているという考えも拒否している。 クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されていく」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。 また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
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神の属性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 04:59 UTC 版)
アフマド・イブン・ハンバルは神の属性や神学上の問題に関して、ジャフム・ブン・サフワーンを始祖とするジャフム派(al-Jahmiyya)やムウタズィラ派の説を論駁・否定した。特にハンバルは両派がクルアーンで描写されている神の属性や別称、擬人的表現の問題について否定的な主張を展開していたが、イブン・ハンバルはクルアーンに述べられていることを字義通り解釈することの重要性を強調し、これらの主張に反駁を繰り返している。以下はイブン・ハンバルによるジャフム派やムウタズィラ派に対する論駁点を見ながらハンバル派の主要な神学的見解を述べる。 イブン・ハンバルによれば、ムウタズィラ派もイスラーム初期の分派で神の予定説や属性・擬人表現を極端に排斥していたジャフム派もいずれも永遠性を考慮せずに神について考察しているという点で誤っている、という。クルアーンや預言者の伝承(ハディース)で言及されているように神は数多くの属性と名前を持ち、しかも神は一つであるとハンバルは信じていた。それゆえジャフム派やムウタズィラ派はタウヒードを理解していないとイブン・ハンバルは断言した。イブン・ハンバルが述べるには、「スンナとジャマーアの民( أهل السنّة و الجماعة ahl al-sunna wa al-jamā`a)」、つまり「預言者ムハンマドの慣行(スンナ)とその正統なる共同体(ジャマーア)を護持する人々」、すなわち「スンナ派」を奉じる信徒とは、神はその権能と光輝とともに永遠であり、彼は永遠性を語り、知り、かつ創造する存在であると信じる者である、という。
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