相対主義と主観性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:03 UTC 版)
主観性は、相対主義にとって重要な論拠の一つである。ここで、主観性とは、事物の把握の仕方が、個々の主体に依存しているということを意味する。すなわち、相対主義の認識論的な根拠によれば、個々の主体によって把握された事象(いわゆる表象や観念)は、個々の主体の感じ方や捉え方に依存しているので、それとの相対的関係においてしか存在しえない。 このような論証の仕方は、古代ギリシャのソフィストにまで遡る。プロタゴラスは、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べた。このような見解は、「万物の尺度は人間である」という彼の有名な一節に凝縮されている。簡単に言えば判断基準は自分自身という人間なのである。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が、万物の尺度の一つであり、絶対的判断基準はなく、それぞれの人間の思いが判断基準だとするものである。人間には絶対的な共通の認識はないとするものである。相対主義と主観性/主体性はこうして相互に連関するが、そのとき、この連関の他方には絶対主義と客観性/客体性の連関がある、ということを承知しておくことで視界が開けよう。 これに対する反論は、主に三つある。 反論(1):プラトンに代表されるように、絶対的真理や絶対的価値は実在しており、人間の能力とりわけ理性は、客観的にそれを把握することが可能であるという見解。 反論(2):カントやフッサールに代表されるように、理性的存在者の認識原理は結局のところ同一であるから、たとえ客観的視点に立つことが不可能であるとしても、個々の主観が最終的には統一されうるという見解。 反論(3):プラグマティズムに代表されるように、最終真理をアブダクションの仮説という形で仮設することは、その有用性に鑑みて肯定されうるという見解。しかし、仮説として設けている時点で存在するのは最終的に確定された絶対真理ではなく、真理候補という(自己修正される余地のある)相対真理でしかない。で、この反論も成立しない。 反論(1)は、最初から真理や価値の主観性を否定する。プラトンによれば、感覚によって捉えられるこの現実世界は不確実であるが、真実在としてのイデアがイデア界に保管されており、人間は思惟によってその世界を垣間見ることができる、つまり、人間は何らかの客観的視点を有しており、真理や価値はその客観的視点から見れば単一である、として形而上学主義に拠ることで楽観的に否定するのである。反論(2)は、真理や価値の主観性を否定するのではなく、主観は多様であるがゆえに統一されえないという見解を否定する。カントによれば、人間は客観的事物すなわち物自体を把握することはできないのだが、そのことは真理の把握や普遍的倫理の確立にとって何ら妨げにならない。プラグマティズムは、前二者の形而上学的な反論から離れて、功利主義的に最終真理の概念を擁護する。すなわち、絶対的真理を仮定した方が、相対主義を徹底するよりも有用だという考え方である。このような立場から見れば、真理は客観的に把握されえるか否か、主観は統一されえるか否かという問題は、我々の生活において拘泥されるべき問いではない。
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