痕跡の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:47 UTC 版)
北海道東部沿岸や南千島には、メナシクルと呼ばれるアイヌ民族集団が居住していたが、文字文化を持っていなかったため、この地域の大地震が歴史記録に残るのは和人による支配が進んだ19世紀以降となる。一方地質調査から、更新世後期に形成された海岸段丘が広く分布しており、10万年スケールでは隆起する傾向にあると推定されている。しかし、平時は年間 1cm 近い速度で沈降しており、これまで歴史記録も含め、地震で隆起した事実はない。むしろ地震時にはわずかに沈降しており、余効変動での若干の隆起を除けば、ずっと沈み続けていることになる。この長期的スケールと短期的スケールの矛盾は超巨大地震による隆起イベントによって解消される可能性が指摘された。その後に行った沿岸の堆積物調査で、後述の17世紀の津波堆積物と17 世紀の指標テフラを含む泥炭層との間に海成の粘土層が挟まれていることを発見し、それらの珪藻分析に基づいて、隆起が地震後数十年かけてゆっくりと生じたことを明らかにした。その隆起量は 1m 程度もしくはそれ以上と推定されている。また同様のイベントが過去約2800年間に少なくとも6回生じていることも明らかになった。 本地域の地殻変動の矛盾は、17 世紀の超巨大地震による余効変動で解消されるように見えるが、このタイプの地震の再来間隔が平均 400~500 年と仮定すると、年間 1cm の速度で沈降すれば、累積の沈降量は 4~5m にもなる。したがって 1m 程度の隆起では地震間の沈降分を回復し、更に段丘を高く持ち上げることはできない。そこで超巨大地震のサイクルの中で、余効変動終息後に始まる沈降は、最初はゆっくりで、次の地震が近づいてくると加速していくという考え方で矛盾を説明しようとするモデルも提唱されている。 隆起の痕跡の発見と同時に、津波堆積物の発見も相次いだ。北海道大学の平川一臣らのグループが北海道東部の太平洋沿岸で発見し、1998年に発表した。また、平川は道南の森町の地層で、500年間隔地震によるものとみられる紀元前後以降3層の津波堆積物を発見した。平川は震源域が十勝・根室沖だけでなく、三陸沖北部の青森沖まで達することがあった可能性を指摘した。 2000年2月に釧路市春採湖で行ったボーリング調査では、過去9000年間に20回の津波イベントが記録されていた。 17世紀の津波堆積物は、豊頃町の湧洞沼付近で海岸線から4.4km、浜中町の霧多布湿原で海岸線から3km以上まで分布しており、その他国後島から下北半島沿岸にかけて当イベントと思われる津波堆積物が発見されている。実際の津波は津波堆積物よりも内陸まで遡上したと考えられている。 17世紀初頭に北海道東部で発生した津波と同一の津波堆積物の北限は、北方領土における分布が不明確であるため、南限についても、下北半島や三陸海岸で17世紀初頭の津波堆積物の分布が確認されているものの慶長三陸地震との区別が困難であるため不明確となっている。
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