痘苗伝来とは? わかりやすく解説

痘苗伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 21:17 UTC 版)

笠原良策」の記事における「痘苗伝来」の解説

嘉永2年1849年6月26日バタヴィアからオランダ船が移入成功した牛痘(管入り痘漿乾燥した痘痂)を用いて長崎出島種痘が行われ、初め活着した。笠原福井持ち帰った痘苗は、この最初種痘から2か月の間に長崎市中広がっていたもの元になった。清国からの牛痘取寄せ実現する前にオランダ人からもたらされ痘苗京都日野鼎哉まで伝わったため、福井藩はこれを国許持ち帰って種痘進めたい旨、嘉永2年1849年12月江戸御聞番中村八太夫から老中阿部正弘に対して上した痘苗福井城下まで植え継がれる日どりは以下の通りである。 長崎奉行所の唐通司頴川四郎八は、外科姉山健輔に依頼して8月28日、孫2人種痘を受けさせて得た痘痂を、9月6日京都日野鼎哉(1797-1850、笠原良策の師)のもとに発送し日野はこれを9月19日受け取った一方、痘苗伝来の知らせをうけて9月晦日福井城下を出発した笠原京都日野宅に到着したのは、10月5日であった同月16日には日野除痘館開館し笠原はここで種痘に関わって詳細な接種法学んだこの間、伝依頼してきた大阪緒方洪庵日野民(鼎哉弟)らに11月1日に分するとともに同月7日大阪道修町種痘所開設臨席した。一方で福井藩内で種痘断絶にした際の備えとして、京都同様にする旨を申述し、接種法伝授した。 そして11月下旬当時痘苗移動する際に最も確実である人から人に植え継ぐ方法によって、笠原らは豪雪栃ノ木峠越えて11月25日福井城下へ痘苗もたらした福井までの足取りを以下に纏める笠原良策らの京都から福井までの行程嘉永2年月 日行程宿泊先11月19日京都出発大津泊(宿:金倉町木屋熊次郎)。 11月20日夕方雨雪大津から船で矢走矢橋、現滋賀県草津市)へ上陸武佐村泊(現滋賀県近江八幡市、宿:米屋源兵衛)。 11月21日晴、西風すこぶる烈しく飛雪長浜泊(宿:塩屋左衛門)。 11月22日晴れ、風静か、出発前の11月16日京都接種した屋宗(惣)助子2名から、福井から上京させて同行していた赤坂善兵衛子2名へ植え継いだ。宗助親子京都帰す木本泊(滋賀県木之本町、宿:堺屋)。 11月23日雨雪北風うずまく柳瀬4尺、午後椿嶺」(椿坂峠)。河内から人足増やし過金して進む。日暮れ時に栃木6、7尺(約180-210)、断崖にはの塊(「雪団」)が転々板取宿の寺田何某迎えの者を2名出してくれた。「初更」(午後8時ごろ)板取板取泊(宿:寺田)。 11月24日今庄2尺、黄昏時に府中着、府中泊(現福井県越前市、宿畳屋)。斎藤(策順)・生駒耕雲)・渡辺(静庵)来訪11月25日夜明けには輿が迎え来て浅水(現福井県福井市)の橘屋小休止ののち、午後福井城下着秋田八郎兵衛)・福井藩細井玄養来訪午後種痘生駒種痘見学

※この「痘苗伝来」の解説は、「笠原良策」の解説の一部です。
「痘苗伝来」を含む「笠原良策」の記事については、「笠原良策」の概要を参照ください。

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