痘苗伝来
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嘉永2年(1849年)6月26日、バタヴィアからオランダ船が移入に成功した牛痘苗(管入りの痘漿と乾燥した痘痂)を用いて、長崎出島で種痘が行われ、初めて活着した。笠原が福井に持ち帰った痘苗は、この最初の種痘から2か月の間に長崎の市中に広がっていたものが元になった。清国からの牛痘取寄せが実現する前にオランダ人からもたらされた痘苗が京都の日野鼎哉まで伝わったため、福井藩はこれを国許に持ち帰って種痘を進めたい旨、嘉永2年(1849年)12月に江戸御聞番の中村八太夫から老中阿部正弘に対して申上した。 痘苗が福井城下まで植え継がれる日どりは以下の通りである。 長崎奉行所の唐通司頴川四郎八は、外科の姉山健輔に依頼して8月28日、孫2人に種痘を受けさせて得た痘痂を、9月6日に京都の日野鼎哉(1797-1850、笠原良策の師)のもとに発送し、日野はこれを9月19日に受け取った。一方、痘苗伝来の知らせをうけて9月晦日に福井城下を出発した笠原が京都の日野宅に到着したのは、10月5日であった。同月16日には日野の除痘館が開館し、笠原はここで種痘に関わって詳細な接種法を学んだ。この間、伝苗を依頼してきた大阪の緒方洪庵・日野葛民(鼎哉弟)らに11月1日に分苗するとともに、同月7日の大阪道修町種痘所の開設に臨席した。一方で、福井藩内で種痘が断絶にした際の備えとして、京都と同様に分苗する旨を申述し、接種法を伝授した。 そして11月下旬、当時痘苗を移動する際に最も確実である人から人に植え継ぐ方法によって、笠原らは豪雪の栃ノ木峠を越えて、11月25日、福井城下へ痘苗をもたらした。福井までの足取りを以下に纏める。 笠原良策らの京都から福井までの行程(嘉永2年)月 日行程・宿泊先等11月19日雨、京都を出発、大津泊(宿:金倉町木屋熊次郎)。 11月20日夕方雨雪、大津から船で矢走(矢橋、現滋賀県草津市)へ上陸、武佐村泊(現滋賀県近江八幡市、宿:米屋源兵衛)。 11月21日晴、西風すこぶる烈しく飛雪、長浜泊(宿:塩屋又左衛門)。 11月22日半晴れ、風静か、出発前の11月16日に京都で接種した柿屋宗(惣)助子2名から、福井から上京させて同行していた赤坂善兵衛子2名へ植え継いだ。宗助親子は京都へ帰す。木本泊(滋賀県木之本町、宿:堺屋)。 11月23日雨雪、北風で雪うずまく、柳瀬雪4尺、午後「椿嶺」(椿坂峠)。河内から人足を増やし過金して進む。日暮れ時に栃木峠雪6、7尺(約180-210㎝)、断崖には雪の塊(「雪団」)が転々。板取宿の寺田何某が迎えの者を2名出してくれた。「初更」(午後8時ごろ)板取着板取泊(宿:寺田)。 11月24日今庄雪2尺、黄昏時に府中着、府中泊(現福井県越前市、宿畳屋)。斎藤(策順)・生駒(耕雲)・渡辺(静庵)来訪。 11月25日夜明けには輿が迎えに来て、浅水(現福井県福井市)の橘屋で小休止ののち、午後福井城下着。秋田(八郎兵衛)・福井藩医細井玄養来訪。午後種痘。生駒種痘見学。
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