生活荒廃の後テレビ進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 00:12 UTC 版)
「ヘルムート・バーガー」の記事における「生活荒廃の後テレビ進出」の解説
ヴィスコンティの死後、ジャッロ映画(イタリアン・スリラー)映画などに出演するが、こういった映画と現場にはなじめなかった。しかし1970年代の映画界にはヴィスコンティのような豪奢な芸術作品を再び作る力は無くなっていた。ヘルムートにとってヴィスコンティの死は大きな痛手となっていて、アルコールとコカインに溺れ、荒んだ生活を送る。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーからのいくつかのプロジェクトへの誘いやアメリカ映画『アイズ』のオファーも断り、1977年には自殺未遂を図っている。ヘルムート曰く「あれ程心から僕を愛してくれる人はもう二度と現れない」と泣いたという。ウルスラ・アンドレスなど友人の支えで再起を図ることとなった。 その後映画のみならずフランスやイタリアでテレビの仕事もするようになる。フランコ・ネロと共演したイタリアのテレビ映画『ダンツィヒの薔薇』や、フランス・ドイツ・スイスのテレビ局と制作会社の共作でクロード・シャブロルなどが監督、ジョルジュ・ドルリューが音楽を担当した、テレビのミニシリーズ『ファントマ』に主演。しばらくはアメリカとヨーロッパを行き来する生活が続くが、ヴィスコンティ時代のような映画には出なくなる一方で、1980年にイタリアで最大のヒットとなったコメディー映画『私の妻は魔女』への出演や、新たなイメージ開拓を模索する。テレビ出演で最も米欧の話題に上ったのが、1980年代に進出したアメリカの人気テレビドラマ『ダイナスティ』のレギュラーだった。役の候補には他にアラン・ドロン、フリオ・イグレシアスがいた。当初気乗りせず断ったのだが、推薦者であり親友のウルスラ・アンドレスの説得で出演を承諾した。ヘルムートはハリウッドで旧知のジャック・ニコルソンや多くのセレブリティ、ソーシャライトの大歓迎を受けた。しかし製作側は彼の派手な夜遊びを「スキャンダルになる」と良く思わなかった。また本気で取り組んだにもかかわらず、製作スタッフと折り合いが付かずに結局降板してしまい、使いづらい俳優のレッテルを張られてしまったという。後年、この『ダイナスティ』の思い出を「泣きながらセットに入り、笑いながら銀行に行った」とあくまでも金のための仕事に過ぎなかったと自嘲している。数年後、大作『ゴッドファーザー PART III』に出演する。フランシス・フォード・コッポラはヘルムートのファンだった。通常と違い、ハゲカツラを付けての地味な老け役に挑んだ。出番が少ない上にアメリカ人スタッフ、俳優と折り合いが合わなかった。英語が下手だと言われたり、扱いのあまりの酷さに憤慨したという。しかし公開当時、この意外な配役は話題になった。 1992年、マドンナのシングル『エロティカ』のプロモーションビデオに出演した。 1993年、『ルードウィッヒ1881』で21年ぶりにルートヴィヒ2世を演じた。ヴィスコンティ作品では描かれなかった晩年のエピソードに絞って描いたこの映画で、バーガーは実際のルートヴィヒ2世の没年齢の40歳より既に遥かに年上であったが円熟味と存在感のある演技を見せた。 1994年11月19日、イタリア人の元プレイメイトでライターのフランチェスカ・グイダートと結婚した。のちに別居したが、離婚はしていない。 1998年に自叙伝『Ich』(僕)を発表する。生い立ちから親しい友人の話、ヴィスコンティはもちろん、人生を時には皮肉っぽく、そして過去を赤裸々に語ったことでドイツ語圏で話題になった。 1990年代後半以降は出身地オーストリアや隣国ドイツで頻繁にテレビのトーク番組にゲスト出演していて、赤裸々なトークと毒舌ぶりで知られている。 2007年、ベルリン国際映画祭でこれまでの功績に対し、特別テディー賞を受賞。
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