琉球布教とは? わかりやすく解説

琉球布教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 16:18 UTC 版)

袋中」の記事における「琉球布教」の解説

結局入明果たせなかった袋中は、琉球機会を待つことにする。『袋中上人絵詞伝』によれば、この時、国士の馬幸明と言う人物の帰依を受け、城外開創した桂林寺住持として迎えられた。 この馬幸明と言う人物について檀王法林寺 袋中上人 - 琉球京都架け橋 -』では、慶長8年年紀がある『琉球往来』の奥書に「那覇港馬幸氏高明」とあること、また『飯岡西方寺開山記』には「是以国黄冠〈彼国第三位〉馬幸明ト云モノ」とあることから、馬幸明は那覇港勤務していた士族で、黄冠の中では最上位となる位階三位であることから見ても、中山王府の高官であったろうと推測している。また『寤寐集』には、馬幸明に孫が生まれたが、この子泣き声を発さず乳を飲むばかりで、やがて死んでまいそう様子であったことから、馬幸明は必死に袋中頼ってきた。そこで、ある夜、袋中この子元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと翌朝この子泣き出し、馬幸明は大い喜んだと言う話があり、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球京都架け橋 -』では馬幸明が実在する人物で、袋中とかなり親し間柄であった考察している。しかし、中山王府では王族・貴族上級士族家譜整備されていたにもかかわらず、馬幸明に関す家譜資料確認されていないため、『古代文学講座11 霊異記氏文縁起』では「何者なのか不詳である」と述べている。 また『飯岡西方寺開山記』によれば、馬幸明は袋中に「琉球国神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と頻りに懇願した。はじめ袋中旅行中であることを理由断ったが、あまりに懇願するので『琉球神道記』全5巻作成している。また『庭訓往来のような初学教本求められ児童のために『琉球往来1巻著している。『琉球往来』に引用され書簡文宛名差出人には、勝連王子四方田狭(よみたん)王子皆川王子大里御屋形などの名が見え袋中琉球王国の上階級広く交流持ったことが窺われる。さらに時の琉球国王である尚寧王の帰仰も得ており、後に尚寧王からはご親筆賛辞肖像画送られていることからも、王の帰仰の深さを知ることが出来る。 袋中桂林寺住持として、民衆への浄土宗布教努めた。その教化様子を『琉球国由来記 巻4 事始 坤』の「遊戯門」77節〔念仏〕では次のように記している。 本国念仏者、万暦年間尚寧王世代袋中ト云僧(浄土宗日本人琉球神道記作者ナリ渡来シテ仏教文句ヲ、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇人民ニ伝フ。是念仏ノ始也。 袋中渡来する前の琉球には、既に臨済宗真言宗伝わっていたが、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球京都架け橋 -』では、臨済宗真言宗修行見られるような難解な仏教比べ、ただ念ずることによって救われるという浄土信仰の「易業易修」の教えは、『琉球国由来記』に「俗ニヤハラゲテ、始テ那覇人民ニ伝フ。」とあるように、土着信仰の根強かった琉球においても身近なものとして浸透していったのだと述べている。 しかし、後継住持育成にまで手が回らず、また袋中琉球去った3年後慶長14年1609年薩摩藩による琉球征伐(征縄の役)がおこなわれ琉球仏教大打撃受けたことから、琉球王国における浄土宗次第衰微して行った

※この「琉球布教」の解説は、「袋中」の解説の一部です。
「琉球布教」を含む「袋中」の記事については、「袋中」の概要を参照ください。

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