琉球布教
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結局、入明が果たせなかった袋中は、琉球で機会を待つことにする。『袋中上人絵詞伝』によれば、この時、国士の馬幸明と言う人物の帰依を受け、城外に開創した桂林寺の住持として迎えられた。 この馬幸明と言う人物について『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では、慶長8年の年紀がある『琉球往来』の奥書に「那覇港馬幸氏高明」とあること、また『飯岡西方寺開山記』には「是以国士黄冠〈彼国第三位〉馬幸明ト云モノ」とあることから、馬幸明は那覇港に勤務していた士族で、黄冠の中では最上位となる位階三位であることから見ても、中山王府の高官であったろうと推測している。また『寤寐集』には、馬幸明に孫が生まれたが、この子は泣き声を発さず乳を飲むばかりで、やがて死んでしまいそうな様子であったことから、馬幸明は必死に袋中を頼ってきた。そこで、ある夜、袋中はこの子の元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと翌朝この子は泣き出し、馬幸明は大いに喜んだと言う話があり、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では馬幸明が実在する人物で、袋中とかなり親しい間柄であったと考察している。しかし、中山王府では王族・貴族・上級士族の家譜が整備されていたにもかかわらず、馬幸明に関する家譜資料が確認されていないため、『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』では「何者なのか不詳である」と述べている。 また『飯岡西方寺開山記』によれば、馬幸明は袋中に「琉球国は神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と頻りに懇願した。はじめ袋中は旅行中であることを理由に断ったが、あまりに懇願するので『琉球神道記』全5巻を作成している。また『庭訓往来』のような初学の教本を求められ、児童のために『琉球往来』1巻を著している。『琉球往来』に引用された書簡文の宛名や差出人には、勝連王子、四方田狭(よみたん)王子、皆川王子、大里御屋形などの名が見え、袋中が琉球王国の上流階級と広く交流を持ったことが窺われる。さらに時の琉球国王である尚寧王の帰仰も得ており、後に尚寧王からはご親筆の賛辞と肖像画を送られていることからも、王の帰仰の深さを知ることが出来る。 袋中は桂林寺住持として、民衆への浄土宗布教に努めた。その教化の様子を『琉球国由来記 巻4 事始 坤』の「遊戯門」77節〔念仏〕では次のように記している。 本国念仏者、万暦年間、尚寧王世代、袋中ト云僧(浄土宗、日本人。琉球神道記之作者ナリ)渡来シテ、仏教文句ヲ、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ。是念仏ノ始也。 袋中が渡来する前の琉球には、既に臨済宗や真言宗が伝わっていたが、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では、臨済宗や真言宗の修行に見られるような難解な仏教に比べ、ただ念ずることによって救われるという浄土信仰の「易業易修」の教えは、『琉球国由来記』に「俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ。」とあるように、土着信仰の根強かった琉球においても身近なものとして浸透していったのだと述べている。 しかし、後継住持の育成にまで手が回らず、また袋中が琉球を去った3年後の慶長14年(1609年)薩摩藩による琉球征伐(征縄の役)がおこなわれて琉球仏教が大打撃を受けたことから、琉球王国における浄土宗は次第に衰微して行った。
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