独裁者・虐殺者としての曹操と三国志演義での悪役化
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「曹操」の記事における「独裁者・虐殺者としての曹操と三国志演義での悪役化」の解説
詳細は「三国志演義の成立史#曹操」を参照 曹操没後百年近くたった五胡十六国時代、既に曹操は批判の対象にされていた。曹操の後継政権である西晋を滅ぼした後趙の石勒は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、騙して天下を取った」(『晋書』石勒載記)と痛烈に非難している。しかし、魏の後継政権を称した北魏では、曹操は先代の名君として、『魏書』劉聡伝では「曹武削平寇讎、魏文奄有中原、於有偽孫假命於江呉、僭劉盗名於岷蜀」(曹操は天下を平定し曹丕は中原を支配したが、ニセの孫氏である呉や、ニセ劉氏である蜀が反旗を翻し三国時代になってしまった)とされていた。逆に南朝で編纂された『後漢書』では、曹操を悪人に描こうと史料を改変しており、前述の徐州虐殺のみならず、荀彧を暗殺し、漢王朝を乗っ取った極悪非道の人物として描くことになった。この『後漢書』の曹操悪人説は清の趙翼が高く評価したことから有名になった。趙翼は「実は『後漢書』の記述こそ真実であり、陳寿『三国志』は晋をはばかり嘘を書いた」と『二十二史箚記』で述べた。現代では『後漢書』の史料改変に逆に疑問の声が投げかけられており、一部では曹操の評価も逆転している。 『三国志演義』の原型として確認できる最も初期のものとして、北宋の説話があげられる。『東京夢華録』に「説三分」なるジャンルがみられ、蘇軾『東坡志林』には、講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びしたとの記述がある。一方、その能力は特に優れており、『三国論』の著者蘇轍によると、「曹操・孫権・劉備の三人は、その才をもって人を取り立てるを知っています。世間の人曰く、孫は曹に及ばず、劉は孫に及ばない」と評した。 南宋から元の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。 その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、大まかな流れは外れないものの蜀漢の陣営を正統とみなし、大衆の判官びいきの心理への訴求と儒教的脚色がなされている。 また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる朱子学が完成されてからは長く官学としての主流となると、三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。特に南宋では、中原を異民族王朝金に征服されていたこともあり、中原回復を唱えた諸葛亮を自らと重ね合わせていたために魏は金と重ねあわされ悪役にされ、魏を正統王朝としていることから陳寿も非難を受け、曹操は多くの論者によって悪とされたと、『四庫全書総目提要』は論じている。蜀を正統王朝とする『続後漢書』のような史書も編纂され、曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識された。 京劇でも曹操は悪役として扱われ、臉譜(隈取)も悪役のそれ(二皮)である。
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