陳寿『三国志』
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「三国志演義の成立史」の記事における「陳寿『三国志』」の解説
詳細は「三国志 (歴史書)」を参照 正史『三国志』(以下、正史)65巻は、三国時代の当事者だった蜀出身の晋の史官陳寿(字は承祚。233年 - 297年)による歴史書で、『魏書』30巻『蜀書』15巻『呉書』20巻の3書から成る。『史記』以来のスタイルである紀伝体で叙述されているものの、必須要素である紀(本紀=皇帝ごとの年代記)は『魏書』にしか存在せず『蜀書』『呉書』には伝(列伝=重要人物の伝記)しかない。つまりこれら3書は初めからセットとして作成されたことが伺え、あわせて「三『国志』」と称された。『華陽国志』陳寿伝によれば、晋が呉を滅ぼした(280年)直後に完成したとある。本来は陳寿の私撰として編纂されたが、唐代に編纂された『隋書』経籍志以降、同時期の歴史を扱った類書とともに正史の類に編入され、その後、他書を次第に駆逐していった。なお陳寿の他の著書としては他に『古国志』『益州耆旧伝』などがあるが、現存していない。 蜀漢滅亡後、晋に仕えた陳寿は表向き、漢-魏-晋を正統な後継王朝とし『魏書』のみに「紀」を設けた。中華皇帝は同時に2人以上存在できないという建前の下、魏の文帝は漢の献帝から禅譲を受け、晋の武帝は魏の元帝から禅譲を受けて成立した王朝であるから、これは当然のことである。君主の死亡記事でも、魏の基礎を築いた曹操には、皇帝に対して用いられる「崩」の字を使用している。これに対し、陳寿が以前仕えた蜀漢もまた漢の皇室の血を引くと称する劉備が建国した王朝であり、劉備の死に対して陳寿は「殂」という特別な字を用いている。「殂」は『書経』で堯の死去に用いられている字であり、陳寿が劉備を堯の子孫、すなわち漢の後継者であることを仄めかしているようにも受け取れる。これに対し呉の孫権の死去は「薨」であり、『春秋』の義例では諸侯の死去に用いる字とされているように、皇帝として扱っていない。また、晋を建国した司馬一族によって殺害された魏の4代皇帝曹髦(高貴郷公)の死に関しては「卒」という一般人にも用いられる字を使い、殺害された詳細を省いて筆を曲げている。陳寿はこのように死去の際に用いる字を変えることによって、言外に英雄の序列を示唆する手法をとっている。 また本文における呼び名も、曹操に対しては初め「太祖」と表記し、その後の出世にあわせて「公」「王」などと表記し、曹丕も「王」「帝」と表記している。それに対し劉備には蜀書で「先主」、劉禅は「後主」と、「帝」の字を回避しながらも、敬意のある表現を用いている(魏書や呉書に登場した際は「備」とも書かれる)。一方、呉の君主に対しては「権」などと呼び捨てである。 このように陳寿は、相当の配慮を行いながらも、自らの出身である蜀に出来うる限りの敬意を織り込めつつ、表向きは晋王朝=司馬氏やその前身たる魏王朝=曹氏を正統とする史書としたのである。陳寿の隠された蜀びいきは、蜀書の掉尾となる楊戯伝に置かれた『季漢輔臣賛』という書物の引用にも見られる。「季」は末子を表す字であり「季漢」とは漢王朝を最後に受け継いだものの謂である。このように「春秋の微意」(明確に書かずに仄めかす文法)で書かれた陳寿の蜀びいきは、後に形成される蜀漢正統論に影響を与えることとなる。
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