狩衣の歴史とは? わかりやすく解説

狩衣の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/30 09:51 UTC 版)

狩衣」の記事における「狩衣の歴史」の解説

狩衣はもともと都の中産階級人々お洒落着であった布衣由来する。布と言う字からも解るおりもともと麻布製の素朴なものであったが、動きやすさを好まれ貴族鷹狩りなどの衣装として採用し平安初期には上皇以下の貴族日常になった奈良平安前期には野行幸天皇鷹狩)に供奉する者は摺衣すりごろも)を着たが、その影響初期狩衣摺り多かった。「伊勢物語第一段にも「若紫摺り衣」が和歌登場する狩猟限らない貴族日常着になると、生地も綾などの高級絹織物となり、高位貴族の着るものを「狩衣」(模様有り、袷仕立てそれ以外布衣(ほい/「ほうい」と呼ぶと狩衣全体を指す/無紋裏地なし)と呼び分けた。ただし、日常着であるため宮中への出入り認められなかった。 平安時代中期には国風文化隆盛とともに「みやび」と言う価値観美意識広まった貴族たちは狩衣表地裏地の色に工夫凝らし裏地の色が薄い絹を通して表にほんのり現れる様子優美な名称をつける「色目」が考え出された。ただし、上級貴族場合四十歳迎え四十の賀」の祝いの後は老人と見なされ白い裏地しか使えなくなった平安時代末期院政期に入ると、直衣続き狩衣院御所出入りすることが一般化する上皇本人狩衣着用するため「布衣始」(ほういはじめ)の儀式のあとは自由に狩衣を着ることができるようになった下着白小袖を使うようになったのもこのころである。 近世武家社会において狩衣礼服認められ武家では侍従に任ぜられない四位正月江戸城礼装とされ、無紋布衣旗本クラス礼服とされた(厳密に無位幕臣内幕府が布衣許したもの。許されない者の装束素襖)。(ちなみに四位中将少将侍従に任ぜられる者の礼装直垂それ以外四位狩衣五位大紋許され無位布衣それ以外無位素襖江戸幕府では、三位以上に昇るのは御三家御三卿前田家のみ。上級大名四位となる。その他の大名高家五位叙せられ、六位以下への叙任はなかった。また、将軍宣下仏事など、将軍束帯衣冠などを着るときは、五位以上は同じ装束着た)また、四位侍従以上も国元などで狩衣用いたが、徳川家宗家御三家御三卿)を除く武家狩衣原則として裏をつけることができなかった(1869年明治2年)に諸侯五位以上も公家準じて許可された)。 近世公家では殿上人上大納言以下、布衣地下人クラス参内付き添うときなどに着用された。なお鎌倉時代以降公家大臣以上は小直衣使用したため(正確に摂家内大臣以上に清華家近衛大将に任ぜられたときから使用)、狩衣使用しない上皇は、中世では小直衣狩衣を共に着ることができたのであるが、近世の上皇は小直衣中心狩衣使用例はほとんど認められない明治初期には朝廷出仕の際の礼装になったが、明治5年太政官布告により礼服洋服となり、狩衣は公服としての役目終えた現代では、神職常装として着用されている。神社本庁制度では、二級以上は裏のある狩衣用いることができるが、三級以下は四季通じて狩衣であって身分の上下によって裏をつけることに制限のあった近世名残伝えている。なお三級以下は無文平絹もしくは顕文紗などの生地限られているが、近年では平絹狩衣布衣)を用いる者はまずいないし(装束店のカタログでも見ない)、紗以外の生地等級問わず使用されている。三級以下の単狩衣は当然撚括であるべきだが、この点もあいまい化されているようである。

※この「狩衣の歴史」の解説は、「狩衣」の解説の一部です。
「狩衣の歴史」を含む「狩衣」の記事については、「狩衣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「狩衣の歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「狩衣の歴史」の関連用語

1
6% |||||

狩衣の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



狩衣の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの狩衣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS