煙害被害者と鉱山側との対立の激化
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「日立鉱山の大煙突」の記事における「煙害被害者と鉱山側との対立の激化」の解説
1911年(明治44年)5月の神峰煙道の完成後も激しい煙害は止むことが無かった。同年7月には多賀郡南部10カ村から茨城県知事に対して、煙害の補償問題解決のために県費による調査機関の設立を要請する請願が提出された。そして9月には麦の補償問題がこじれた国分村村民約600名が、日立鉱山に押しかける騒ぎとなった。11月には茨城県通常県会は、満場一致で煙害についての調査と被害者救済を進めるという内容の「日立鉱山の煙害に関する意見書」を決議するに至った。1911年(明治44年)の煙害被害地域は現在の日立市全域と高萩市、常陸太田市の一部にまで拡大した。 翌1912年(明治45年/大正元年)に入ると煙害は更に激しさを増していった。とりわけ鉱山に近い入四間地区は、1915年(大正4年)3月大煙突の使用開始までの間、激烈な煙害に見舞われることになった。しばしば煙害に襲われた入四間では、山林が枯れて肥料が作れなくなり、煙害に加えて堆肥まで無くなるという事態に陥ったため、作物の生育もままならなくなっていった。またクワも枯れてしまって養蚕も出来なくなり、生計の維持が困難になりつつあった。絶望的な状況下、故郷を捨てて移住する案が真剣に考えられるようになり、実際、栃木県那須への集団移住が検討されるに至った。 また日立鉱山側と鋭く対立したのがタバコ生産者であった。タバコは煙害に極めて弱く、日立鉱山の排煙は特産であった水府煙草を直撃したのである。タバコの専売収入は国の貴重な財源であったこともあり、煙害の激化とともにタバコ生産者とのトラブルは激化していった。1913年(大正2年)7月、水府煙草生産同業組合は日立鉱山側に対して、早急に煙害防止策を講じるか、さもなくばタバコの生育期間である5月1日から9月20日までの製錬を中止することなどの7項目の要求を突きつけた。そして翌1914年(大正3年)7月になると、水府煙草生産同業組合は日立鉱山側からの補償が不十分であるとして、まずは鉱山側との直接交渉で事態打開を目指すものの、不調に終わった場合には茨城県知事への陳情、さらに専売局長を通じて大蔵大臣を動かし、大蔵大臣と農商務大臣との大臣折衝で製錬中止を目指すといった運動方針を決議する。 1914年(大正3年)、煙害はピークに達していた。当時、日立鉱山側と煙害被害者との間には一触即発の空気が流れ始めていた。同年6月、被害民約80名が日立鉱山事務所に押しかけた。7月の地元新聞報道によれば、煙害被害民たちは最後の手段として1万5000人で日立鉱山を襲撃、包囲して鉱山側に要求貫徹を迫る作戦準備、戦闘準備が出来ていると報じ、また同月の別の報道でも、近日中にタバコ農家の煙害被害者たちが何らかの具体的行動に打って出るであろうと言ったと伝えていた。 1914年(大正3年)には、日立鉱山の煙害補償金の支払い総額は約24万円に達した。当時、日立鉱山の事務所には煙害の賠償を求める人々や、煙害防止設備建設を訴える人々がひっきりなしにやって来ていた。その上、前述のように煙害は日立鉱山関係者にも被害をもたらすようになっており、鉱山における保健、衛生問題も降りかかってきた。これまで取られてきた煙害対策は事実上全て効果が無く、鉱山内外から持ち上がる諸問題をその場限りで何とか片付けるのがやっとであった。前途に光明が見いだせない中、関係者には徒労感が募っていった。しかしまだ唯一希望が残されていた。1914年(大正3年)4月、農商務省から大煙突の建設認可が下り、その建設が始まっていたのである。
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