演義における関羽
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「三国志演義の成立史」の記事における「演義における関羽」の解説
『演義』では、関羽の武や義を強調するため、様々な工夫が施されている。まず本来別人が挙げた功績を関羽に移し替える作業である。たとえば董卓の部将華雄を斬る功績は本来孫堅のものであったが、これを関羽に移し替えて「温酒斬華雄」という名場面に転換した。群雄の前での鮮やかな関羽のデビュー戦として演出し、読者に関羽を印象づけるとともに、曹操が関羽の武に惚れ込む伏線として機能させている。また曹操に降った関羽が白馬の戦いで袁紹の部将顔良を斬ったことは正史にも載るが、その後さらに文醜まで関羽が斬ったとするのは(『平話』から受け継がれた)創作である。武神・軍神として関羽の武を強調する作為である。 忠義の将としての姿は「千里走単騎(嘉靖本では千里独行)」で典型的に語られる。一時曹操に降伏していた関羽は、袁紹軍に身を寄せている旧主劉備の下に参ずるため、曹操から受けた栄典をすべて返上し、劉備夫人を護衛しながら、行く手を塞ぐ5つの関門で6人の将を斬る。正史ではわずか30字しか記述がないが、『演義』では関羽の忠節を強調する物語として大々的に発展させた。なお嘉靖本の千里独行では関羽に対して「関公」という呼称が使われ、それ以外の部分にはほとんど使われないため、この逸話は後から三国物語に挿入された可能性が高く、全篇に渡って「関公」と表記されることが多い『平話』との関連性がうかがえる。ただし『平話』の段階では関羽が曹操に別れを告げた出発地が長安とされていたのに対し、『演義』ではつじつまを合わせるため、許都に改められている)。この逸話の挿入により、関羽の劉備に対する忠義と、曹操の関羽に対する惚れ込みようがさらに強調された。 そして関羽の義将たる側面が最大限に発揮される名場面が「華容道」である。赤壁の戦いにおいて諸葛亮は、関羽が以前曹操から恩義を受けていたことを知りながら曹操の追撃を命じた。しかし関羽は華容道で敗残の曹操とまみえると、情義からあえて曹操を見逃すのである。それまで丁寧に叙述されていた関羽と曹操の因縁を伏線として形成された非常に感動的な場面であり、毛宗崗も総評でこの場面における関羽の義を絶賛している。正史や裴注にはこのような場面は全く存在せず、『平話』では関羽が曹操と鉢合わせした際に謎の霧が立ちこめ、曹操はそれに紛れて逃げたとするのみで、何の感動もない。すなわちこの段は関羽の義を強調するために、『演義』編者によって最終段階で挿入された創作なのである。魯迅は『中国小説史略』でこの場面を「孔明の描写は狡猾さを示しているだけだが、関羽の気概は凛然として、元刊の『平話』とは格段の差がある」と絶賛し、王国維も「文学小言」でこのくだりを「大文学者ならでは為し得ない」と賞賛している。「義絶関羽」の人物造形は、『演義』編者にとって最も思い入れが込められた産物であった。 これ程までに称揚された関羽は、非業の最期を迎えた後、まさに「神化」する。呂蒙の計略で捕らえられ、孫権に処刑された関羽は「顕聖(神として姿を現す)」し、ともに死んだ関平・周倉とともに、普静和尚の前に姿を現す。そして勝利の宴を祝う呂蒙に取り憑いて、呪い殺すという神罰をくわえ、さらに首となった後に曹操の健康まで害する(第77回)。こうして義絶・関羽は文字通り神となった。『演義』の影響でさらなる"関聖帝君"への崇拝を生み、現在も世界中の関帝廟で祀られている。
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