演義の楊修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 15:12 UTC 版)
小説『三国志演義』では、禰衡の登場場面で名前のみが挙がり、しばらくして益州より訪れた張松の接待役として登場する。張松と接触する内にその才を認め、曹操に面会を申し入れるが、逆に曹操の逆鱗に触れた張松が百叩きの罰を与えられ、楊修の前から去ってしまうことになる。 その後、劉備軍との漢中攻防戦において、鶏湯(鶏のスープ)を食べていた曹操が「鶏肋」とつぶやく。楊修はこれを伝え聞き、曹操が撤退の意思決定をしたと解釈し、その準備を進めることになる。しかし曹操は、それを勝手な行動であるとして憤り、楊修を処刑してしまうのである。曹操は「鶏肋」という言葉が、軍を退くという意味ではないことを示すために劉備軍へ攻めかかったが、劣勢の上、長征で疲労気味の兵では劉備軍に敵う筈もなく結局は惨敗、曹操自身も矢で前歯を折られ命からがら逃げ返ることになる。そのため曹操は「楊修の言う通りに軍を退いていれば、損害を最小限に食い止められていたかもしれない」と思い、撤退を決断している。また撤退後、曹操は楊修の遺体を手厚く葬るように指示している。
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