演義における孫夫人
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小説『三国志演義』では、呉国太(架空の人物、孫堅の第二夫人、第一夫人呉夫人の妹)が生母という設定になっている。 身の回りには常に武装した侍女たちが付き、自身の部屋には武具が飾り立てられている、と描かれている。兄の孫権が呉侯であることから、彼女もまた臣下から「東呉郡主」(諸侯の姉妹か娘の称号)と呼ばれている。 劉備との政略結婚の話の時に、初めて孫夫人の名前が出てくる。周瑜発案の婚姻政策により劉備を呼び寄せ、当初は殺そうと考えていたが失敗したため、代わりに国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略を立てる。しかし、趙雲が諸葛亮より授かった策を用いることで、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出することに成功する。夫となる劉備とは年齢が30歳近くも離れていたが、両人の仲は良好なものであったことになっている。 その後、劉備と孫権との関係が悪化する。孫権は母の呉国太の要望に従って、張昭と魯粛の策で孫夫人の旧臣である周善という者を派遣させ、孫夫人に母の呉国太が危篤との偽報を与え、阿斗(後の劉禅)を引き連れて帰国させようとする。しかし、それを発見した趙雲と張飛によって周善は斬られ、阿斗を奪い返されたので、彼女は一人で母国へ帰国することになる。 帰国した後の孫夫人については、原本や写本によって違いがある。いわゆる「毛宗崗本」は、夷陵の戦いで劉備が戦死したとの誤報を聞いて長江へ身を投げ、後世「梟姫祠」という廟がたてられたという挿話を加えている。 なお、一般に知られる「弓腰姫」という二つ名や、孫夫人自身も武装していたという設定は、吉川英治著の『三国志』にあるが演義にはない。 NHKの『人形劇 三国志』では「貞姫(ていき)」と名付けられ、劉備の前妻である淑玲(すうりん)と瓜二つであるという設定で登場している。
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