渡英から帰国後とは? わかりやすく解説

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渡英から帰国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 07:53 UTC 版)

野口米次郎」の記事における「渡英から帰国後」の解説

1902年明治35年11月20日ロンドン到着旧友である画家牧野義雄再会しブリキストン街の下宿同宿した。1903年明治36年1月には自費により『From the Eastern Sea』をロンドン出版社から刊行して非常な好評をよび、アーサー・シモンズウィリアム・バトラー・イェイツWilliam Michael Rossetti文壇人の知遇を得る。3月、同詩集増補拡大版を出す。5月ボストン帰る。翌1904年明治37年)に日露戦争報道目的として、ニューヨーク・イブニング・ペーパー『グローブ』社の日本通信員として9月帰国する帰朝第一夜日本橋次兄高木藤太郎邸で過ごす。11月より三兄野口祐僧正藤沢常光寺寄寓する12月に『帰朝の記』を春陽堂より刊行1905年明治38年4月慶應義塾招聘により文学部英文科主任教授就任11月東京市小石川区久堅町(現・小石川白山)に借家をして移り住み英文散文詩集『The Summer Cloud』を発表12月上海旅行1906年明治39年1月下旬上海より帰国久堅町の家の女中だった武田まつ子と結婚この年国際的な詩人の会「あやめ會」を結成6月1日野口あやめ會編輯主任立場で、同会の第一詩集あやめ草』を如山堂より出版する11月より1908年明治41年)にかけて、ほぼ毎週ジャパンタイムズ文芸批評コラム担当する12月19日あやめ會第二詩集豐旗雲』を佐久良書房より出版。しかし、会員間のもめごと原因あやめ會解散する1907年明治40年レオニー・ギルモアレオニーとのあいだにできた息子であり後に彫刻家となるイサム・ノグチ2月7日サンフランシスコアメリカ丸で3月3日横浜到着久堅町で野口レオニーイサム同居する5月東京離れて鎌倉円覚寺蔵六庵に入る。英訳百人一首」を『早稲田文學5月8月号に掲載する初秋茗荷谷移転同年武田まつ子が長女一二三出産1908年7月茗荷谷から牛込区西五軒町移転再度書斎円覚寺蔵六庵に持つ。1909年明治42年レオニーイサム大森転居公に別居1910年明治43年)まつ子は長男春男出産1913年大正2年東京府豊多摩郡中野町新築転居8月死去10月オックスフォード大学招きにより離日マルセイユパリ経てロンドン12月20日到着。翌1914年大正3年1月29日オックスフォード大学講師として松尾芭蕉俳諧について、英語で講演を行う。講演集日本詩歌論』をロンドン出版しジョージ・バーナード・ショーハーバート・ジョージ・ウェルズエドワード・カーペンター多く文人会談また、開催中であったウィリアム・ブレイク展覧会を見る。4月パリ島崎藤村会い10日同宿するその後ロンドン戻りベルリンからモスクワ経てシベリア鉄道6月帰国1919年大正8年6月岩波書店より『六大浮世繪師』を刊行した後、10月14日渡米スタンフォード大学カリフォルニア大学バークレー校シカゴ大学ユタ大学などアメリカ全土講演旅行し、さらにカナダトロント大学なども訪れたまた、ニューヨークにてイェイツ再会する1920年大正9年3月死去4月米国より帰国12月二女四方死去

※この「渡英から帰国後」の解説は、「野口米次郎」の解説の一部です。
「渡英から帰国後」を含む「野口米次郎」の記事については、「野口米次郎」の概要を参照ください。

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