消えた徳山村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:39 UTC 版)
徳山ダム事業発表当時の所在地である岐阜県揖斐郡徳山村は、徳山ダム建設に伴って466戸・522世帯(約1,500名)が移転を余儀なくされた。ダム建設はすなわち村の消滅という事態につながる。下流の横山ダム建設の際は、建設予定地の藤橋村が村を挙げての反対運動を展開し、一時期は建設省職員の入村すら許されない雰囲気であった。 さらに徳山ダムの場合は「全村水没」という事態に至る重大性から、その反対運動は官民一体となった激しいものであった。当時、西濃では長良川河口堰や板取ダムが、東濃では阿木川ダムが反対運動に直面しており、水資源開発公団に対する水源住民の不信と不満が渦巻いていた。徳山ダムにおいても反対運動による補償交渉は長期化しており、水没後の村の帰属や住民の生活再建など課題は山積していた。 1977年(昭和52年)、徳山ダムは水源地域対策特別措置法第9条指定ダムに認定され、水没補償費の増額、生活再建策を提示するとともに、集団移転地の造成と移転費補償などが話し合われるに至り、次第に住民も態度を軟化させ始めた。住民は将来の安定した生活を懸けて交渉を行い、最終的に岐阜市に程近い本巣郡糸貫町(現:本巣市)ほかへ集団移転することなどで合意。1983年(昭和58年)11月21日に「徳山ダム建設事業に伴う損失補償基準」が調印され、一般補償交渉は妥結した。 これ以降、466戸の住民は次第に村から移転を開始した。このうち331戸は、水資源開発公団が造成した5箇所の集団移転地(芝原団地、糸貫団地、表山団地、網代団地、文殊団地)へ、117戸は集団移転地外の岐阜県内へ、残り18戸は県外へ転出していった。1987年(昭和62年)4月1日、徳山村は正式に隣村である藤橋村に吸収される形で合併し、1889年(明治22年)に村制が施行されて以来98年間の歴史に幕を閉じることとなった。 なお、徳山村を吸収した藤橋村も平成の大合併によって久瀬村・坂内村等とともに揖斐川町に合併している。残っていた住民も次第に転居を始め、1989年(平成元年)に水没全世帯の転居が完了した。徳山村各地区の神社も移転し、本巣郡本巣町(現・本巣市)の集団移転地近くに徳山神社として合祀された。 沈み行く徳山村の中で長年にわたって写真を撮り続けた、増山たづ子というひとりの女性がいた。彼女は村の自然や四季、人々など、ありし日の日常を写真という形で後世に残そうとした。彼女の写真は写真集や展覧会を通じて一般にも広く知られるようになり、1984年(昭和59年)には「エイボン アワーズ・トゥ・ウィメン」を受賞。水資源開発公団職員に対しても気さくに接していたという彼女は、徳山ダム建設起工式にも招かれたが、ダム完成直前に88歳で死去した。 増山たづ子の甥で、村の分校で教師を務めていた平方浩介の著書『じいと山のコボたち』(童心社)は映画化され、1983年(昭和58年)に『ふるさと』として公開された。 また、徳山村住民で郷土史研究家である大牧冨士夫は、徳山村の記録・郷土史として『ぼくの家には、むささびが棲んでいた──徳山村の記録』(編集グループSURE、2007年4月)という書籍をまとめている。 そして、2006年7月29日、徳山ダム建設工事現場にて歌手の由紀さおり、安田祥子を招いて『徳山ダムふるさと湖底コンサート』を開催。旧村民ら約5,000人を動員し、沈みゆく徳山村を偲んで最後の別れを告げた。 徳山村住民が使用していた農具や家財道具などの貴重な民俗資料は、道の駅星のふる里ふじはし内の徳山民俗資料収蔵庫で保存・展示されている。
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