毛邦初事件
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1950年5月上旬、ワシントン・ポストに米国人女性を名乗る人物からの投書が掲載された。投稿者の正体は毛邦初の助理の向惟萱上校で、軍がサンフランシスコから10万ドルで輸入したとされる航空機燃料300万ガロンの取引が実際は行われておらず、宋子良の設立した孚中公司も関与している旨の告発であった。その金額が雪だるま式に膨れ上がっている事から、米国政府きっての親華派であったウォルター・ジャド(英語版)下院議員とウィリアム・ノーランド上院議員も中華民国大使館に対し、民国政府の購入ルートの不透明性を非難した。 しかし毛は、空軍総司令の周が軍需品の架空請求を行っていたと主張。周もすぐさま反論し、両者は互いに非難の応酬を始めた。政府は毛に帰国を求めたが、毛は更に周が中国銀行ニューヨーク支店の軍の口座預金50万ドルを着服したと主張した。いよいよ事態を重く見た民国政府は、毛に再度帰国を命じたが、毛は周の身辺調査が先決であると拒否した。 毛は預金の明け渡しを強硬に拒み続け、顧維鈞、宋子文、兪国華、李惟果(中国語版)、胡適らが交互に明け渡しを勧告してもなお態度を変える事はなかった。1951年8月、葉公超外交部長は毛の解任を通達。駐米大使顧維鈞と特別助理の兪大維を後継代理とし、司法行政部政務次長の査良鑑(中国語版)を調査官として派遣。事件の解決を命じた。 1952年1月、中国系米国人女性秘書フランシス・リンとともにアリゾナ州ツーソンを経てバスでメキシコに脱出、以降クエルナバカ等を転々としていたが、8月にメキシコシティにてパスポート偽造と不法入国の容疑で警察に逮捕される。米中両政府は直ちに引き渡しを要求するも、メキシコ当局は拒否した。ワシントン州連邦地方裁判所は約636万8千ドルの請求権があるとの判決を下した。一方、中華民国政府も300万ドルの請求を決定している。 その間にも、長期にわたる法的および政治的闘争が続いた。毛は、自身が横領したことに異議を唱えなかった。彼は「(中国の)人々が現政府を放棄すべきとき、彼らのために何百万すべてを保管している愛国者」であると主張した。大衆紙「コロネット(英語版)」のリチャード・オコーナーは、「一方で、彼は極めて非公式な善意の大使として、彼らのお金の多くをまき散らした」とコメントした。これは台湾政府が悪名高い私立探偵ジョン・ブローディを雇い、不足している資金の発見と回収、そしてメキシコから毛邦初を拉致すること画策していることが報告されたからである。これらの試みは、メキシコシティ近郊でブローディの仲間のクラレンス・ソープマンが射殺されたことで失敗に終わった。 毛は公判後、メキシコシティのレクンベリ刑務所(英語版)に収監された。なお、隣の独房にはレフ・トロツキーを暗殺したことで知られるラモン・メルカデルが服役していた。 1955年4月、業を煮やした蔣介石は三か月以内に事件を解決するよう命じた。しかし、メキシコ裁判所が毛の犯罪人引渡しを禁じたため、5月24日の釈放後もメキシコにとどまり、請求された金額を返金しようとしなかった。 一連の案件は董顕光の駐米大使就任後も解決しなかった。1958年に葉公超自らが駐米大使となり、毛が20万ドルの生活費受給と引き換えに200万ドルの支払いに同意した事でようやく和解が成立。以降は米国への入国も放免され、南カリフォルニアにて隠居生活を送った。着服はほんの少しに過ぎず、莫大な額ではないと主張し続けた。1987年死去。
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