毛野の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)
毛野地域は、のちに渡良瀬川を境として上毛野(かみつけの/かみつけぬ)・下毛野(しもつけの/しもつけぬ)に分かれたという。この「上」「下」は、上総国・下総国同様、一国を「上下」に分けたものであるが、越・備・豊・筑・肥のように「前後」に分けた国との命名の違いは明らかでない。この上毛野・下毛野はのちに令制国と定められた(下毛野は那須を併合)。のち、713年(和銅6年)頃に諸地名を好字二字と改めるという一環で、両国は上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)と改称した。この際「毛」の字は消えたものの「け」の読みを残している。 これに関して「国造本紀」によれば、仁徳天皇(第16代)の時代に上毛野・下毛野に分かれ、それぞれ上毛野国造・下毛野国造が支配したという。ただし『古事記』『日本書紀』には当初より上毛野・下毛野と記されており、この伝承の記載はない。加えて『先代旧事本紀』は後世の潤色が多いため、この記述には懐疑的な見解も強い。 一方近年では、考古資料による考察から上毛野・下毛野の呼び分けの時期を5世紀末から6世紀初頭とする説が支持されている。この頃に栃木県域では、新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする説もある。 なお、毛野分割を示唆する伝承として『日光山縁起』の「神戦譚」が知られる。これは日光男体山・赤城山に関する伝説で、戦場ヶ原において男体山(栃木県)の神と赤城山(群馬県)の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめたという。以上から、毛野が分割されるにあたって激しい領地争いがあったとする説のほか、日光山側の助けについた鹿島の神(鹿島神宮)は畿内政権を象徴するとし、畿内から何らかの影響が及ぼされたとする説がある。
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