殺貝剤PCPの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:54 UTC 版)
「地方病 (日本住血吸虫症)」の記事における「殺貝剤PCPの開発」の解説
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月から翌年4月にかけて、フィリピン中部のヴィサヤ諸島にあるレイテ島パロ地区 (Palo) で約1,700名ものアメリカ軍兵士に高熱や下痢が集団で発症した。当初マラリアを疑った米軍軍医は糞便検査の末、兵士らが罹患した病気の正体が日本で発見された日本住血吸虫症であることを突き止めた。当時のアメリカにおける保健衛生体制は知識、予算の面で世界最先端のものであり、事前の感染症対策を用意周到徹底していると自負していたアメリカにとってレイテ島での日本住血吸虫症感染は不覚であった。 このフィリピンでの経験によりアメリカは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、日本占領下の1947年(昭和22年)10月、米軍熱帯病委員会委員であるジョージ・ハンター (George W Hanter) 博士を中心にした GHQ による衛生部隊を山梨県に投入し、甲府駅構内に客車(いわゆる保健車)を改造した臨時の研究所を作り、山梨県内の研究者と共に地方病の調査研究を行った。その際、山梨県が1917年(大正6年)に作成した『俺は地方病博士だ』を見た米軍医療関係者は、その出来栄えと啓蒙を含めた内容の分かりやすさに感嘆していたという。 同研究所はキャンプ座間(神奈川県座間市)内に在日米軍が設けた米陸軍第406総合医学研究所(略称:406MGL)の出先機関であり、甲府駅構内の研究施設では殺貝に使用するための薬品テストが行われた。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から有機塩素化合物であるサントブライト(ペンタクロロフェノール)に有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製することが可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称Na-PCP、日化辞番号:J809E)の開発に成功する。同研究所では患者の治療も同時に行われ、住民から『寄生虫列車』、『病院列車』などと呼ばれ山梨県民に親しまれ、同研究所での日米共同研究はその後9年間続いた。 PCPによる殺貝は主に農民を主体とする地域住民により人海戦術で行われ一定の効果を上げたが、1965年(昭和40年)10月に、中巨摩郡昭和町の養殖池に薬剤が流入し、観賞用のニシキゴイ7,000匹が死ぬ事故が起きるなど、川魚や農作物への有害性が問題になった。 環境への配慮から毒性を弱めた殺貝剤として、当時東北地方で「殺ユリミミズ剤」として使用されていたユリミン (BAB、日化辞番号:J3.051A、3,5-Dibromo-4-hydroxy-4'-nitroazobenzene) を粒状に改良したものが、1968年(昭和43年)から PCP にとって変わり実用化された。ところが実用化直後にユリミン製造メーカーの原料不足により製造中止を余儀なくされてしまう。山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭、薬袋(みない)勝らが中心となり、PCP、ユリミンに代わる殺貝剤の調査検討が行われ、1976年(昭和51年)からはフェブロールジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩 (phebrol:Sodium2-5dichloro-4-bromophenol)、通称 B2 が使用されるようになった。 1960年(昭和35年)から1987年(昭和62年)までの27年間に、Na-PCP 328トン、ユリミン 175トン、B2(粒剤)87トン、B2(液剤)87キロリットルが、殺貝剤として甲府盆地のミヤイリガイ生息地(有病地)に散布された。
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