歴史・伝説
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ロルシュ修道院は、764年にフランケンのガウの伯であるカンコールとその母親のヴィリスヴィンダによって創設された。この修道院には、メスに近いGorze修道院のベネディクト会修道士らが移り住んだ。この修道院は885年に「Lauressam」という名で初めて記録され、時代とともに発展して現在の名前になった。この修道院は中世初期または盛期に帝国修道院となり、オーデンヴァルト、ベルクシュトラーセ、ラインヘッセンの他にアルザスやロートリンゲンに所領を有した。 叙任権闘争の内戦で多くの所領を失った。12世紀後期に古い所領台帳の資料を再編成して管理する試みがなされた(ロルシュ文書)。しかし、ロルシュは1232年にマインツ大司教領となり、プレモントレ会の修道士らが新たに定住した。その後、マインツ選帝侯とプファルツ選帝侯の間で代官権の所有を巡って深刻な対立が生じた。カロリング朝時代のベネディクト会修道院は一部発掘されているが、800年頃の楼門(「王の門」と呼ばれる)が保存されている。この建物は現在、ユネスコの世界遺産に登録されている。 ヤーコプ・グリムはロルシュの馬牧場の石棺と幽霊について語る伝説を記している。すなわち、グリム兄弟『ドイツ伝説集』第3巻、第70話「ロルシュ牧場の馬飼いの家」(Das Hirtenhaus auf der Lorscher Waide)には以下の話がある。1753年のこと、ロルシュ牧場(Lorscher pferdweide)の馬飼い(pferdhirt)が、家の側で骸骨が二つ入った石棺が見つかったと役所に届け出た。彼が言うには、35年前に亡くなった父親はある夜、家の中で明かりがついているのに気づき、祭壇の前に立つ司祭の身なりをした男が立っているかのようだった(ein priester angekleideter wie am altar stünde)。じっと見つめていたが、その者が振り向いた。その目が窓のガラス(注:当時の庶民の住まいの場合、丸い玉のような形か)のようだったので、びっくりして逃げ出した。朝になって家に入ると小さな匙が見つかったと父親が語ったと。息子はその匙を役人に見せた。
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歴史・伝説
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インドには元々ドラヴィダ人が住んでいた。そこにアーリア人が来て住み着き、文化を築いた。南に残ったケララ一帯ではドラヴィダ人によるサンガム文化が発達した。サンガム文化では尚武の気風を尊んだ為、ドラヴィダ武術が発達していった。その後、西から異民族が攻めてきたので、一部のアーリア人が南下した。そこでアーリア人が身に着けていた武術と、ドラヴィダ武術が合わさってカラリパヤットの祖形が出来たといわれている。伝説によれば、禅宗(「座禅」もヨガである)の僧・達磨大師がインドの格闘技を中国に伝道した。その際に禅の修行に僧達が耐えられるように、心身を鍛える術を記した『洗髄経』『易筋経』を与えた。それが現在の少林拳(十八羅漢拳、達磨拳などがある)、になったと言われている。 16世紀には最盛期を迎えたが、西洋から銃が入ってくると行う人が少なくなったことに加え、セポイの乱以降イギリスが「カラリパヤットを修める者は処刑する」という法を作って厳しく禁止したこともあり、貴重な流派が失伝するなど一時は衰退した。20世紀になって独立の気運が高まってくるとC.V.ナラヤナン・ナイールによるカラリパヤット復興運動がおきた。彼はCVNスタイルと呼ばれる近代カラリパヤットを整備し、多くの弟子を育成した。CVNスタイルについては従来の技術を簡単にしてしまったなどの批判もあるが、C.V.ナラヤナン・ナイールはカラリパヤットの日本で言う嘉納治五郎のような存在である中興の祖という扱いになっている。
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