武芳彦系
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太平洋戦争を経た1946年、渡島地方の馬所有者で組織された渡島馬匹組合副組合長の職にあった芳彦は、戦争で休止されていた函館競馬の復興を期し、進駐軍兵士とその家族および函館市民の慰安を名目とした競馬開催を企画、函館駐留軍司令官のウィリー大佐より全責任者となることを命じられ、その実現に向けて奔走した。これに先だって札幌でも行われ、後に進駐軍競馬と呼ばれたこの開催は、同年7月27-28日に函館開催が実現し、芳彦はその執行委員長を務めた。その後進駐軍競馬が数度開催されたのち、競馬は一時国営化され(国営競馬)、函館の正規開催も再開に至った。 進駐軍に絡んでは、園田牧場が戦争中、軍にジャガイモを供給していたことで戦争責任を追及され、農地改革に伴い、当時100頭の牛と80頭のサラブレッドを繋養していた牧場を取り潰されるという憂き目にも遭った。当時4歳であった芳彦の三男・邦彦が当時を記憶し、「大きな牧場で育ち、毎日馬とあそんでいた。ある日、馬がみんなどこかへ連れて行かれて、友だちを失ってしまった。トラクターがやってきて、厩舎をバリバリと壊しはじめ、牧場は農地になってしまった」と述懐している。しかし、以後も芳彦は道競馬界の有力者であり続け、戦後発足した北海道馬主協会でも理事を務めた。 国営競馬は再び民営化され、1954年から日本中央競馬会が発足。3年後の1957年、邦彦が騎手としてデビューした。調教師に転じていた叔父・平三の誘いを受けて京都競馬場で騎手となった邦彦は、1960年代に入ると徐々に頭角を現し、1970年代には有数の名手に成長、「名人」、「ターフの魔術師」との異名を取った。邦彦はクラシック三冠競走全制覇、関西所属騎手として初の通算1000勝などを記録した後、1985年、当時史上第5位の記録であった1163勝の成績で引退。調教師に転じた。 武豊 武幸四郎(騎手時代) そして1987年には、邦彦の三男・豊が騎手としてデビュー。豊は新人最多勝利記録の更新を皮切りに、中央競馬における種々の最速・最年少勝利記録をことごとく更新。「天才」と謳われ、1980年代後半には競走馬オグリキャップなどと共に、当時勃興した第二次競馬ブームの中心を担った。1990年代後半に至ってブームは鎮静するも、2005年から2006年にかけては、ディープインパクトと共に再び一般の注目を集める存在となった。日本人騎手初の米重賞競走制覇(1991年)、同欧州G1競走制覇(1994年)、史上2人目の旧八大競走完全制覇(1998年)、中央競馬史上初の年間200勝達成(2003年)、同通算4000勝達成(2018年)など、豊が持つ記録は数多い。1997年には、豊の活躍に触発された四男・幸四郎も騎手としてデビュー。邦彦の管理馬・オースミタイクーンを駆り、デビュー2日目で重賞勝利という史上最速記録を作り、以後も複数のGI競走を制するといった活躍を見せている。豊と幸四郎はテレビタレントとしての活動も行い、豊は1995年にアイドル歌手の佐野量子と結婚した。幸四郎は2017年2月末で騎手を引退し、調教師に転身した。
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