構造改革の評価とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 07:42 UTC 版)
構造改革は、社会党がうまく取り入れていれば、議会政治の中で社会党政権の実現につながったのではないかとの指摘[要出典]もある。その一方で、日本の社会の変革は、大企業などの支配勢力の妨害なしに実現が可能であるという楽観的な見通しを述べていたために、実際の政治の中では実効性をもたなかったとの主張[要出典]もある。 具体的な政治の場面での影響は残り続けたと指摘できる面も否めない。 日本共産党においては、1960年代以降の大都市部で爆発的に増加した都市流入民に対する要求実現を求めるための様々な運動によって支持拡大を実現する。日本共産党の基本的路線である二段階革命論では、窮乏化する労働者と小作農を前提とするにとどまり、第一段階の国内民主化に向けての運動対象は労働組合と農民運動内での共産党勢力の育成にとどまらざるを得ない。団地の主婦や様々な地域社会のアマチュア文化運動を組織化した経過は、従来の革命理念だけでは説明しきれないものがあり、構造改革に影響を受け地域活動を展開した上田・不破兄弟が1960-1970年代に日本共産党をリードしたこととは無関係とは言えない。 日本社会党においては、理論的探究に熱心であった江田三郎とは対照的に、政治的には、中国・ソ連型の社会主義を否定する議員や労組活動家による消極的な思想として広がり、現実の政治変革や地域運動などに反映される部分は少なかった。しかし、1989年のおたかさんブームで大量当選した新人議員のうち、構造改革の影響を受けてきた者が少なくなく、後に、民主党や社民党などで有力議員となっている者がいる。 思想的としては、松下圭一「市民自治の憲法理論」などが、政治学の国民と行政との関係に対する法解釈、自治体に関する研究、自治体の計画行政のあり方、都市政策などの分野に対して大きな影響を与える。そのうち、国民と行政の関係に対する法解釈の疑義が、国民主権論として2000年代から官僚支配を打破する理論として展開され、2009年民主党政権誕生において、政治主導を支える理論として利用されている。 構造改革は、マルクス主義思想の解釈から生まれたものであるが、現在は、構造改革の系譜にある政治家・研究者の大半にマルクス主義との影響や関係はほとんどみられない。その背景には、1960-1970年の日本では、左派政党のマルクス主義を擁護する立場から、議会主義的な政治変革が必要とする立場を説明づける理論として広がり利用されてきたため、マルクス主義的な革命・改革が説得力を失った後には、構造改革の現実的な改革的理論のみが残存し、活用されている。 2001年以降は保守政党であるはずの自由民主党の党総裁小泉純一郎がスローガンとして構造改革を引用・アレンジ[要出典]して聖域なき構造改革を唱え、さまざまな分野の変革を行っている。この時、構造改革とはマニフェストと共に、マルクス主義用語であるという紹介もなされている。 詳細は「聖域なき構造改革」を参照
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