梅謙次郎の断行論
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当時、旧民商法に修正すべき点が無いと考える断行論者は富井によれば少数派、木下・梅によれば絶無であった。 梅の断行論も、法典成立が長引くことを避け、不完全でも施行し、欠点は後から修正すべきという拙速論であり、彼が旧民法の全面的な"賛成派"だというのは事実誤認である。 私は欧羅巴に居る時から我邦の法典の草案を見、又発布になってから後は其明文を見て随分不完全の法典であると…は云ひましたが…不完全の所は跡から直すことが出来る。種のないことは出来ぬから何でも種を一つ拵へて置かないといけない…私の法典に対して攻撃を致すのは自分の違ふと思ふ所は学者としては充分論じなければならぬ。依て随分法典の悪口を云ふたのである。夫(それ)で私は法典延期論者である杯(など)と云ふ人がありました。 — 梅謙次郎「法典ニ関スル述懐」1893年(明治26年) 債権担保編に「任意ノ不可分」と題して掲げたる第86条より第91条に至る6ヵ条の法文は…全く徒文に属するものにして、且つ其規定する所往々条理に反し動もすれば前後矛盾自家撞着余は之を抹殺に付して可なりと思ふ…未成年者に抵当を許して譲渡を許さざることの理なし異日民法を改正するに当りては其財産編第550条第2項を一抹に付し去らんことを欲するなり。 — 梅謙次郎、1891年(明治24年) 当時の法典が完全とは思はざりしも、当時法律家中に大に学派分れ、英独仏の各派に加へて、又守旧派などもあり、もし一度之を延期すれば、更に法典の施行を見るは難からんかと思はれたり。しかるに当時の時勢は、吾人の宿望たる条約改正将(まさ)に行はれんとし、而して法典之は行はれず。又内国にても、裁判を為すに当り成文は極少、極悪にして、且つ慣習も不明にて、旧民法と雖も、此状態に比すれば勝れり。即ち無きには勝ると考へて、速に実行せんことを主張せしなり。 — 梅謙次郎、東大民法講義、1907年(明治40年) もっとも、実際に法典以前の単行法が「極少、極悪にして、且つ慣習も不明」だったかは異論もあり、膨大な単行法が民事法の全領域に存在していたとの主張もあるが、明治初期の民事立法は驚くほど少なかったとの主張もある。法規の無い場合でも、前述の裁判事務心得に基づく条理に従った裁判も機能していたから、決して無法状態の暗黒時代ではなかった。 しかし、裁判官が学んだ外国法によって「条理」の判断を異にする場合があったため、一応の裁判の統一基準が早急に必要であり、国策たる条約改正にも資するというのが梅の主張であった。 なお「家長権は封建の遺物」というのが梅ら断行派の主張だったとする理解もあるが、官僚の清浦奎吾が議会で「個人主義」を唱え、立憲改進党の加藤政之助(慶應卒)が旧民法の進歩性を賞賛したのが目を引く程度で(後述)、仏法派の論争時の主張は旧民法は旧慣に反しないという弁明に過ぎず、積極的に人権論や個人主義を説くわけではなかったとも指摘されている(福島)。 学理の新古を以て遽(にわか)に法典の良否を決す可からず…欧州に於ても古へは皆な家族制度行はれて殊に羅馬の古法の如きは尤も家族を重んじたりしが是れ今日は既に陳腐に属し漸次変遷して個人制度之に代はるに至れり。我邦に於ては封建の余習を承け家族制度仍ほ確立するが故に羅馬の旧主義却て我邦の今日に適合するもの多し。…近来欧州の一二国に於て新に唱ふる所の主義学説我邦の今日に適せずして却て論者が所謂旧主義旧学説こそ実際の需要に応ずること少なからざるを保せざるなり。 — 梅謙次郎「法典実施意見」1891年(明治25年)
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