梅田駅付近の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 21:33 UTC 版)
神戸線の開業時、梅田駅(現・大阪梅田駅) - 十三駅間は宝塚線と線路を共用しており、さらには併用軌道も残存していた。また起点となる梅田駅にしても、当時地上を走っていた国鉄東海道本線を乗り越える形で、大阪駅の南側へ箕有時代に設けられた地上駅を、2面2線から3線へ拡張させただけで使用していた。 しかし、運転本数の増加により将来的には捌ききれなくなることが予想されたこと、それに阪神・国鉄との競合上、併用軌道を残したままでは高速化による対抗が困難であったことから、同区間の線路別複々線化・専用軌道化が決定された。1924年(大正13年)に新淀川橋梁の架け替えを行ったことからこの工事は始まり、1926年(大正15年)7月5日に完成する。これに伴い梅田は2面4線の高架駅となったが、地上の併用軌道区間に関しても、1949年(昭和24年)1月1日に休止となるまで北野線という支線扱いで、北野駅に至る区間までが残存した。さらにこの用地は北野線休止後の1959年(昭和34年)、京都線梅田乗り入れに伴う三複線化工事の際に活用されている。 なお1920年(大正9年)頃からは關一ら率いる大阪市、それに都市改良計画調査会により「将来的には、大阪市街における国鉄・私鉄線を高架線ないし地下線にし、市街を分断している線路・踏切を除去する」という内容の計画が持ち上がっており、それに伴い国鉄大阪駅も貨客を分離した上で、旅客専用の高架駅とする計画が立ち上がっていた。そうなると、高架駅として開設された梅田駅付近に関しては、再び地上線へ移す必要がある。そのため高架化に際し、駅の部分に関しては、すぐ撤去が可能なように鉄骨構造で造られていた。 その後1928年(昭和3年)、大阪駅の貨物扱いが新設された梅田(貨物)駅へ移行されると、高架化工事はいよいよ具体化し、1931年(昭和6年)6月には鉄道省(当時の国有鉄道運営組織)より阪急へ、梅田駅付近を地上線へ移行する要請が出された。しかし、その費用を「全額阪急が負担せよ」としたことから同社では反発し、以後2年余りこの件で省と揉めることとなった。結局、住民などからも早期に高架化を行うべく要請が出されたため、1933年(昭和8年)8月に一部費用を省が負担することで妥協が成立し、1934年(昭和9年)6月1日深夜に共同で工事を実施することとなった。 この切り替え工事は国鉄・阪急共に列車を長期間運休させず、正に「一夜」で実施することになっていた。阪急側では神戸線の運転を20時、宝塚線の運転を23時30分で打ち切り、600人を動員して0時までに軌道を撤去した。そして鉄道省側では1200人を動員し、前日までに準備されていた東海道本線・城東線(後の大阪環状線)の橋脚をはめ込んだ。さらには国鉄地上線の撤去、阪急地上駅への線路接続も行われたが、約5時間で作業は終了した。なおこの工事では、小林も自ら出向いて陣頭指揮を行っている。 地上駅への移行後、阪急は大規模な拡張工事を実施し、1936年(昭和11年)には7面8線という巨大なターミナル駅に成長した。なお、国鉄線を乗り越す部分に使われていた2つの橋脚は解体して保管され、1つは神戸線住吉川橋梁が1938年(昭和13年)の阪神大水害で流出した際、その代替として活用されている。 ちなみに、地上線から高架線へ上がる部分には1000分の30(30パーミル)の勾配ができ、ラッシュ時などには駅を発車する電車がノロノロと登っていく姿を見ることができた。また1959年(昭和34年)には京都線の乗り入れで9面9線となるものの、手狭であったことから京阪神急行電鉄時代の1970年(昭和45年) - 1972年(昭和47年)にかけ、東海道本線北側の現在地へ移転されている。
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