東京大学・國學院大學での教壇生活
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「坂本太郎 (歴史学者)」の記事における「東京大学・國學院大學での教壇生活」の解説
1935年(昭和10年)、東京帝国大学文学部助教授に就任。講師の経験のないまま助教授に就任したことは異例であった。なお東大助教授就任以前、九州帝国大学助教授や広島文理科大学助教授就任の要請があったが、皆坂本の指導教官である黒板勝美が断った。助教授就任当初担当した講義は、上代史概説と『日本三代実録』の講読演習であった。1939年(昭和13年)、辻善之助が東大教授兼史料編纂所長を退官、中村孝也が東大教授昇任に伴い史料編纂官が解かれたため、坂本が史料編纂官を兼任することとなった。これは辻善之助からの直々の依頼によるものであり、前述のとおり、坂本が東大文学部を卒業したときには、辻の勧誘を断った経緯があったため、坂本はこの依頼を受諾することとなった。『大日本史料』第1篇の編纂部長となり、部下の竹内理三・太田晶二郎・武田政一とともにその編纂に従事した。1942年(昭和17年)、新設の神宮皇學館大學教授就任(東大助教授と兼職)の要請を、同大学学長であった山田孝雄から受け、平泉澄らからも進められたが、坂本は断り、代わりに当時京城帝国大学法文学部の教授であった喜田新六がその職に就いた。後になって坂本はその借りがあったので、山田が長を務めた國史編修院の嘱託を受けた。 1945年(昭和20年)12月、東京帝国大学文学部教授就任、国史学第二講座の担当となった。終戦直後の相次いだ国史学科教授の辞任・退官(平泉澄の辞任、中村孝也の定年退官、板沢武雄の教職追放)により、国史学科の教授は坂本ひとりとなり、終戦後の混乱状態にあった国史学科の再建は、新任教授となった坂本の双肩にかかることになった。坂本は、敗戦により打撃を受けた東大国史学科の汚名を返上するため、実証的な学風の振興を以て再建することに尽力した。1951年(昭和26年)に、東京大学史料編纂所所長を兼任(1962年(昭和37年)に東京大学教授を定年退官時まで)、史料編纂所員の地位の向上(教官制の導入)や、『大日本史料』の刊行の再開、更には新たに『大日本古記録』の刊行に務めた。文学部教授として、学部では、国史概説・律令時代の講義・日本史学史・国史学演習など、大学院では、『令集解』の講読を担当した。 1949年(昭和24年)から1959年(昭和34年)まで史学会理事長をつとめたが、1958年(昭和33年)の建国記念の日制定問題をめぐって三笠宮崇仁親王が史学会総会を退席する事件がおこった際、坂本は、崇仁親王から建国記念の日制定問題について総会にて決議しないのは理事の怠慢であり、理事長独裁の史学会であると非難され、マスコミからは「坂本天皇」と非難された。坂本は、史学会を純然とした学術団体として保持し、政治問題についての意見・声明を発表する会とすることをよしとしなかった。 東京大学退官後、岩橋小彌太の要請により、國學院大學教授に就任した。学部では史籍の解題、大学院では『日本書紀』の研究と『日本三代実録』の講読を担当した。國學院大學の定年は70歳であったが、坂本は、80歳を越えて1983年(昭和58年)まで教壇に立った。 國學院大學教授を退職後も、さまざまな学術活動を続けたが、1985年(昭和60年)9月、国立がんセンター付属病院に入院し、胃癌の摘出手術を受け療養したが、約1年半後の1987年(昭和62年)2月に死去した。享年85。医者嫌いであった坂本は、自らの体が病魔に冒されているのに気付かず、ゆえに癌の発見が遅れたと言われる。
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