朝鮮:大院君政権の排外政策とは? わかりやすく解説

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朝鮮:大院君政権の排外政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:57 UTC 版)

八戸事件」の記事における「朝鮮:大院君政権の排外政策」の解説

朝鮮14世紀建国以来事大交隣」を旨とし、明・清王朝交代後も満洲王朝である清を宗主国仰いできた。また日本との関係は、文禄・慶長の役断絶した後、江戸幕府断絶していた日朝国交回復するため、対馬藩通じて中世行われていた朝鮮通信使復活打診してきた。そこで朝鮮側釜山倭館設置して対馬藩士を常駐させるとともに、新将軍就任慶賀する名目で、通信使を派遣することとなる。しかし使節団接遇する幕府諸藩負担次第重くなり、1787年11徳川家斉将軍就任した際には、老中松平定信により経費節減のため、目的地江戸から対馬変更する「易地聘礼」が提案された。これに反撥した朝鮮側難色示し結局通信使の派遣20年以上遅れて1811年文化8年)まで延期され経緯があり、それ以後通信使は派遣されることはなかった(詳細朝鮮通信使#文化朝鮮通信使接遇改定参照)。 朝鮮にとって、八戸事件起きたこの同治5年高宗3年)という年は、排外運動一つ頂点迎えた時期でもあった。当時国王の位に就いたばかりの高宗年少であり、排外主義的な傾向の強い父親昰応(興宣大院君称される)が摂政として国務取り仕切っていた。1864年大院君は清を除く他国との通商交流禁止する強力な鎖国政策開始していた。 1866年2月には、大院君政権によるフランス人宣教師および朝鮮人カトリック教徒対する大弾圧事件丙寅教獄)があり、その報復として10月にはロゼ少将指揮下のフランス極東艦隊江華島来襲して朝鮮軍戦闘し、1箇月余にわたって江華府を占領し漢江河口封鎖した後に、朝鮮側撃退され撤退するという事件が起こっていた(丙寅洋擾)。またそれとは別に8月には、アメリカ武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江遡上し、帰路座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、乗組員全員殺害されるという事件が発生していた(ジェネラル・シャーマン号事件)。 このような状況にあった最中同治6年1867年3月宗主国清か帰国した冬至使が、日本征韓計画記した八戸記事伝え清国礼部からの咨文、および総理衙門集めた新聞情報もたらしたのである。それらによれば米国軍艦ワチューセット号(猾諸舌、Wachusett)がシャーマン事件調査のため朝鮮派遣される予定であり、英仏米朝鮮軍艦派遣して通商条約締結しようとしていること、丙寅洋擾フランス艦隊撤退したのは天候悪化のための一時的なものであり、春には再び朝鮮攻撃するつもりで、その際日本出兵企んでいることなどを伝えてきた。仏・米両国との紛争加え日本による攻撃可能性があるとの情報が、朝鮮政府与えた危機感大きく大院君政権事態重く受け止めるとともに早急な対策を講ずる必要に迫られた。

※この「朝鮮:大院君政権の排外政策」の解説は、「八戸事件」の解説の一部です。
「朝鮮:大院君政権の排外政策」を含む「八戸事件」の記事については、「八戸事件」の概要を参照ください。

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