朝鮮:大院君政権の排外政策
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「八戸事件」の記事における「朝鮮:大院君政権の排外政策」の解説
朝鮮は14世紀の建国以来「事大交隣」を旨とし、明・清の王朝交代後も満洲王朝である清を宗主国と仰いできた。また日本との関係は、文禄・慶長の役で断絶した後、江戸幕府が断絶していた日朝国交を回復するため、対馬藩を通じて、中世に行われていた朝鮮通信使の復活を打診してきた。そこで朝鮮側は釜山に倭館を設置して対馬藩士を常駐させるとともに、新将軍就任を慶賀する名目で、通信使を派遣することとなる。しかし使節団を接遇する幕府や諸藩の負担が次第に重くなり、1787年に11代徳川家斉が将軍に就任した際には、老中松平定信により経費節減のため、目的地を江戸から対馬に変更する「易地聘礼」が提案された。これに反撥した朝鮮側が難色を示し、結局通信使の派遣が20年以上遅れて1811年(文化8年)まで延期された経緯があり、それ以後は通信使は派遣されることはなかった(詳細は朝鮮通信使#文化度朝鮮通信使の接遇改定を参照)。 朝鮮にとって、八戸事件の起きたこの同治5年(高宗3年)という年は、排外運動が一つの頂点を迎えた時期でもあった。当時、国王の位に就いたばかりの高宗は年少であり、排外主義的な傾向の強い父親の李昰応(興宣大院君と称される)が摂政として国務を取り仕切っていた。1864年、大院君は清を除く他国との通商・交流を禁止する強力な鎖国政策を開始していた。 1866年2月には、大院君政権によるフランス人宣教師および朝鮮人カトリック教徒に対する大弾圧事件(丙寅教獄)があり、その報復として10月にはロゼ少将指揮下のフランス極東艦隊が江華島に来襲して朝鮮軍と戦闘し、1箇月余にわたって江華府を占領し、漢江河口を封鎖した後に、朝鮮側に撃退され撤退するという事件が起こっていた(丙寅洋擾)。またそれとは別に、8月には、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江を遡上し、帰路に座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、乗組員全員が殺害されるという事件が発生していた(ジェネラル・シャーマン号事件)。 このような状況にあった最中、同治6年(1867年)3月に宗主国清から帰国した冬至使が、日本の征韓計画を記した八戸の記事を伝える清国礼部からの咨文、および総理衙門が集めた新聞情報をもたらしたのである。それらによれば米国軍艦ワチューセット号(猾諸舌、Wachusett)がシャーマン号事件調査のため朝鮮に派遣される予定であり、英仏米が朝鮮に軍艦を派遣して通商条約を締結しようとしていること、丙寅洋擾でフランス艦隊が撤退したのは天候悪化のための一時的なものであり、春には再び朝鮮を攻撃するつもりで、その際日本も出兵を企んでいることなどを伝えてきた。仏・米両国との紛争に加え、日本による攻撃の可能性があるとの情報が、朝鮮政府に与えた危機感は大きく、大院君政権は事態を重く受け止めるとともに、早急なる対策を講ずる必要に迫られた。
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