昭和の再興およびその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 19:07 UTC 版)
「蓮華院誕生寺」の記事における「昭和の再興およびその後」の解説
昭和4年当時、初代の川原是信は、荒尾で霊能者として祈祷所を営んでいた。旧浄光寺跡の一帯はその頃は寒村で、数軒の人家や畑があるだけで、残りは雑木林や竹林などに覆われた藪になっていたのだが、子供たちが藪に入って遊ぶと腹痛を起こし女性が中に入ると眼病を患うなど、こうした現象に村人たちは荒神様がいるとして怖れていた。そこで村人たちは是信の祈祷力を聞きつけて、その祈祷力で地霊を鎮めることを依頼した。 12月10日早朝、村人から請われるままに、是信が浄光寺跡地の草堂で読経をしていると、突然皇円から「我は今より760年前、遠州桜ケ池に龍身入定せし阿闍梨皇円なり。今心願成就せるをもって、汝にその功徳を授く。よって今から蓮華院を再興し衆生済度をはかれ。」との霊告を受けた。そのとき34歳だった是信は、皇円という名も桜ヶ池の存在も知らなかったが、このただならぬ霊告によりすぐさま寺の再興に取り掛かり、翌昭和5年3月には村人の協力を得て、小さな本堂が建設された。これが浄光寺蓮華院再興の第一歩で、これ以降、貫主堂である阿闍梨堂、食堂、男女の参籠所などが建てられ、寺院としての形を徐々に整えていった。そして再興された寺の名は浄光寺とせず、皇円の生誕地の寺ということで蓮華院誕生寺とした。その後、この小さかった本堂は昭和25年(1950年)には、大願堂(だいがんどう)と名付けられた新本堂に姿を変え、さらにこの大願堂も昭和41年(1966年)にはRC造の本格的本堂として建て変えられて今日に至っている。このように是信は皇円の霊告に従って、蓮華院の再興に力を注ぎながら、同時にその天才的な霊能、激しい修行、そして皇円の功徳力により、密教行者として霊力をますます強め、衆生済度を行ない、そのため信者は全国に増えていった。 昭和52年(1977年)、第1世の是信の死後、第2世には川原真如が住職に就任した。翌昭和53年(1978年)11月3日には、是信が発願した奥之院が小岱山中に落慶し、信者のみならず一般の人にも蓮華院の信仰を広めていくこととなった。真如は布施行の実践に努め、カンボジア難民救済を始め、これをもとに昭和54年(1979年)NPO法人「れんげボランティア会」を創設し、一食布施運動、同胞援助運動などを展開し、国際協力活動を推進した。またその後「親を大切にする子供を育てる会」を設置し、全国の小中学生から母の詩を募集し、親子の絆を強める運動を推進した。 平成4年(1992年)、川原英照が中興第3世として住職を継承し、信者に対しての衆生済度だけでなく、れんげボランティア会によるスリランカ、チベット、カンボジアなどへの国際協力にますます力をいれているのみならず、平成7年の阪神大震災、平成22年(2011年)の東日本大震災にはボランティアチームを派遣するなど、国内での社会活動にも力を入れている。平成17年(2005年)にはダライラマ14世を招いて、本院で世界平和祈念護摩法要、奥之院で法話会が行なわれ、地方寺院でありながらもその国際的な活躍は社会から注目を集めている。平成28年(2016年)の熊本地震では寺を挙げて支援活動に邁進。また全国各地からの支援グループを寺内に受け入れ、熊本県北における支援活動のプラットフォームとしての役割も果たした。 伽藍 建築的には、平成9年に伝統的建築技術で造られた木造の五重塔が落成し、さらに平成23年には南大門が再建され、平成30年には多宝塔が落成するなど、由緒ある寺院として格式を高めている。
※この「昭和の再興およびその後」の解説は、「蓮華院誕生寺」の解説の一部です。
「昭和の再興およびその後」を含む「蓮華院誕生寺」の記事については、「蓮華院誕生寺」の概要を参照ください。
- 昭和の再興およびその後のページへのリンク