映画運動家として
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「高野悦子 (映画運動家)」の記事における「映画運動家として」の解説
1980年(昭和55年)から1997年(平成9年)3月まで東京国立近代美術館フィルムセンター運営委員を務め、1997年(平成9年)9月から2007年(平成19年)には名誉館長を務めた。1982年(昭和57年)にはパウロ・ローシャ監督によって『恋の浮島』が製作され、初の日本・ポルトガル合作映画となったこの作品ではプロデューサーを務めた。 国際交流基金が主催する東京での世界地域別映画祭の実行委員として、1982年(昭和57年)の「南アジア映画祭」、1984年(昭和59年)の「アフリカ映画祭」、1988年(昭和63年)の「ラテンアメリカ映画祭」開催に尽力し、1990年(平成2年)の「東欧映画祭」では実行委員長を務めた。1984年(昭和59年)に東京国立近代美術館フィルムセンターで火災が起こると、「フィルムセンター焼失フィルムのための募金」を設立した。この運動で2700万円の募金を集め、焼失した300本のうちフランス名画65本の復元フィルムを購入した。1985年(昭和60年)から2012年(平成24年)まで、東京国際女性映画祭のジェネラルプロデューサーを務めた。 1989年(平成元年)には、2年前に京都賞を受賞したアンジェイ・ワイダ監督が母国ポーランドに日本美術技術博物館「マンガ」館を建設することを提案した。高野は日本側の5億円寄付運動のため、「クラクフ日本美術技術センター建設募金」を設立し、事務局長に就任して運動を進めた。1993年(平成5年)10月22日に目標寄付額に到達し、1994年(平成6年)11月30日に日本美術技術博物館が完成した。 1990年(平成2年)にポルトガルで開催された「日本文化週間」で、山田洋次監督参加のシンポジウムと作品上映企画「シクロヤマダ」を実現させた。1991年(平成3年)にはイギリスで開催された「英国ジャパンフェスティバル1991」の実行委員として、無声映画から現代までの「日本映画監督五十選」の3カ月間の企画上映を実現させた。ダニエル・ミッテラン・フランス大統領夫人の提案によってフランス・リベルテ基金主催で開催された「自由と人間」国際映画週間では、日本側の実行委員を務めた。 2000年(平成12年)に製作された記録映画『伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心』では、企画・製作総指揮を務めた。2001年(平成13年)、「平塚らいてうの記録映画をつくる会」の会員と製作委員と、製作総指揮で、記録映画『平塚らいてうの生涯 元始女性は太陽であった』を完成させた。 2004年(平成16年)には文化功労者に推挙された。2006年(平成18年)10月、日本ポルトガル協会の会長に就任した。 2013年(平成25年)2月9日、大腸がんのために入院先の病院で死去。83歳没。没後には日本政府より正四位および旭日重光章が追叙追贈された。
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