映画運動家としてとは? わかりやすく解説

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映画運動家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 23:35 UTC 版)

高野悦子 (映画運動家)」の記事における「映画運動家として」の解説

1980年昭和55年)から1997年平成9年3月まで東京国立近代美術館フィルムセンター運営委員務め1997年平成9年9月から2007年平成19年)には名誉館長務めた1982年昭和57年)にはパウロ・ローシャ監督によって『恋の浮島』が製作され、初の日本ポルトガル合作映画となったこの作品ではプロデューサー務めた国際交流基金主催する東京での世界地域別映画祭実行委員として、1982年昭和57年)の「南アジア映画祭」、1984年昭和59年)の「アフリカ映画祭」、1988年昭和63年)の「ラテンアメリカ映画祭開催尽力し1990年平成2年)の「東欧映画祭」では実行委員長務めた1984年昭和59年)に東京国立近代美術館フィルムセンター火災が起こると、「フィルムセンター焼失フィルムのための募金」を設立した。この運動2700万円募金集め焼失した300本のうちフランス名画65本の復元フィルム購入した1985年昭和60年)から2012年平成24年)まで、東京国女性映画祭のジェネラルプロデューサーを務めた1989年平成元年)には、2年前に京都賞受賞したアンジェイ・ワイダ監督母国ポーランド日本美術技術博物館マンガ」館を建設することを提案した高野日本側の5億円寄付運動のため、「クラクフ日本美術技術センター建設募金」を設立し事務局長就任して運動進めた1993年平成5年10月22日目標寄付額に到達し1994年平成6年11月30日日本美術技術博物館完成した1990年平成2年)にポルトガル開催された「日本文化週間」で、山田洋次監督参加シンポジウム作品上映企画「シクロヤマダ」を実現させた。1991年平成3年)にはイギリス開催された「英国ジャパンフェスティバル1991」の実行委員として、無声映画から現代までの「日本映画監督五十選」の3カ月間の企画上映実現させた。ダニエル・ミッテラン・フランス大統領夫人提案によってフランス・リベルテ基金主催開催された「自由と人間国際映画週間では、日本側の実行委員務めた2000年平成12年)に製作され記録映画伝説舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心』では、企画・製作総指揮務めた2001年平成13年)、「平塚らいてう記録映画つくる会」の会員製作委員と、製作総指揮で、記録映画平塚らいてう生涯 元始女性太陽であった』を完成させた。 2004年平成16年)には文化功労者推挙された。2006年平成18年10月日本ポルトガル協会会長就任した2013年平成25年2月9日大腸がんのために入院先の病院死去83歳没。没後には日本政府より正四位および旭日重光章追叙追贈された。

※この「映画運動家として」の解説は、「高野悦子 (映画運動家)」の解説の一部です。
「映画運動家として」を含む「高野悦子 (映画運動家)」の記事については、「高野悦子 (映画運動家)」の概要を参照ください。

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