明・清への朝鮮燕行使
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朝鮮から明に送った使節は1年3使の定期使行と非定期使行があり、李氏朝鮮の建国(1392年)から明滅亡(1644年)までの252年間の使節団の数は定期使節だけで約700回以上を派遣した。朝鮮燕行使は、丙子の乱で李氏朝鮮が清に降伏した1637年から、日清戦争により冊封体制から解放される1895年まで約250年続き、その回数は500回以上或いは清の入関(1645年)から甲午改革の1894年までの250年間の数は約600回(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)。これは、当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などの朝貢使節と比べても、李氏朝鮮から日本への朝鮮通信使(不定期、約20年に1回)と比べても、突出して多いものであった。一般的に、1回の使節団の規模が約300人で、明・清への派遣人数はそれぞれ延べ約20万人である。明・清で交易・情報交換・文化交流・書籍の購入などさまざまな交流を行い、その知識を朝鮮へ持ち帰った。世界の政治・経済・文化の中心の明・清へ派遣された使節団の文化的・政治的・社会的影響は膨大であった。しかし、韓国では戦後日韓友好論による朝鮮通信使研究が圧倒的多数を占めており、朝鮮燕行使による研究は少数である。これは、戦後の韓国歴史学界では、中国を宗主国と崇める慕華思想に基づいている朝鮮燕行使は、それこそ事大主義を代表するものとして認識され、研究対象にならなかった。 現代の韓国では、「朝鮮燕行使の進貢よりも朝鮮燕行使への回賜の方が多かった。中国との宗属関係は形式的なもので、実質的には貿易の実益を狙った経済活動だった。政治的な隷属関係ではない」という主張がある。しかし、最新の研究によれば、清朝宮廷から朝鮮燕行使への回賜は、進貢のわずか10分の1だったことが明らかになっており、朝鮮は中国に搾取される一方の最貧国だった。黄文雄は、「朝鮮は、『礼儀の国』や『君子の国』と称されるのを誇りにしているようだが、それはまさしく属国としての誇りにほかならない。その言葉は宗主国である中国に対する属国の礼を忠実に守る国を指すものだ。中華帝国の配下にある国王は原則として中国皇帝の臣下として任命されていた。朝貢は、礼部の管轄とされていた。朝鮮の朝貢使節が北京詣でをする際は、諸侯の礼さえ受けられない粗末な待遇だった。そもそも中国の属邦のなかでも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。朝鮮国王の言動が中国皇帝の逆鱗に触れたときは厳しく処罰され、貨幣鋳造権停止の処分を受けたこともある」と評している。吉田光男は、「清との関係で言えば、初めは朝鮮は屈辱的な関係を強いられます。それまで明と安定的な関係を保っていましたが、南からの日本の攻撃による傷跡が癒えるまもなく、満洲族が興した清が北から攻めてきます。そして漢城陥落。国王は降伏の儀式を行わされ服従を誓わされます。それ以上に屈辱的だったことは、それまで野人と言って野蛮視していた満洲族の下に組み込まれたことでした。にも拘わらず、500回にも及ぶ使節を派遣する、しかも朝貢するというカタチで。心中は認めたくない、でもカタチとしては認める、そうしないと朝鮮の独立が保てない、といった苦衷を秘めながら。ところが100年も経つと、だいぶ認識が変わってきます。確かに支配者は変わったけれど、中国そのものは変わっていない。文化的には却って中華文明によって支配されている、というように。そして国内的にも、清朝から冊封されるということは正統な王朝であると国民が納得できる」と評している。
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