明・清代の「改土帰流」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:12 UTC 版)
これらの「土司・土官」が置かれた辺境諸地域のうち、比較的内地に近く、早くから「土司・土官」の置かれた地方では、中国人(漢民族)の移住者が増加し、中国化が進んだ。これにつれて、中国人(漢民族)の経済的圧迫が強くなり、そのため「土司・土官」を先頭とした少数民族の反乱が数多く起こるようになった。そのため明代以降、「流官」による直接統治を行うための「改土帰流」がしだいに行われるようになった。「土司・土官」による間接統治と「流官」による直接統治の具体的な相違点は、以下のとおりである。まず「土司・土官」は、中央政府の「律令」によらず、原住民の慣習をもって法とし、中央政府に対して若干の朝貢と非常時の出兵以外の義務をほとんど負わなかったのに対して、「流官」は正式の国家の官吏として権力と義務をもっていた。「流官」は、原住民の戸籍を作り、保甲を立て、租税を取り立て、検地を行い、学校を建て、科挙を実施するなど、すべて中央政府の法令に基づく画一的行政を実施しており、全く内地の州県官と変わらなかった。清代になり、雍正年間における特に1726年から1731年までの間、反乱したり、法を犯したり、後継者が欠如したりした「土司・土官」あるいは、土地を返上したりする「土司・土官」は、次々に廃止された。乾隆年間になり、貴州省の「改土帰流」が達成されてから、中国人(漢民族)による移民を通じて、「化苗為漢(ミャオ族を漢民族に変えること)」も計画された。ミャオ族に対して漢民族の姓を強要し、漢人戸籍として登録させた。やがて「対ミャオ族」に限られていた「改土帰流」は、四川省西部のチベット族の反乱「土司・土官」に対しても適用されるようになった。
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