旧名人戦の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:12 UTC 版)
本因坊秀哉名人引退後、本因坊の名跡は本因坊戦に継承されていたが、名人の地位については決まりがついていないままであり、大手合による九段昇段者が出たことでもその意味を明確化する必要性があった。 将棋界では名人戦が創設されて人気を博しており、当然囲碁においても同様の形式が期待されてもいた(1934年、東京日日新聞主筆の阿部眞之助が囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し、1935年に将棋の名人戦が開始したが、囲碁は本因坊秀哉の意向もあり本因坊戦とされ1939年に開始した)。これは坂口安吾の論評「碁にも名人戦つくれ」(1949年毎日新聞大阪版)にも現われている。 日本棋院では1949年の「日本棋院囲碁規約」に「名人規定」を盛り込んだ(①本因坊経験者、②段位九段、③七段以上と18局打ち平均65点以上、という3条件を満たしたものが、さらに「名人選考委員会」にて合格したものを推挙するとされた)が、具体的な棋戦などは定めず、実際に当時の第一人者と目される読売新聞嘱託の呉清源を加えた棋戦の実現は難しい状況でもあった。 1951年、朝日新聞は呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎、木谷實による四強争覇戦を企画したが、立ち消えとなる。1952年に朝日は大手合を発展させて将棋と同様の順位戦制度による名人戦を企画、呉清源にも出場の承諾を得て、契約金1千万円を提示した。日本棋院では渉外担当理事の高川格がこの推進役だったが、木谷實の「名人は作るものではなく、自然に生まれるまで待つべきもの」といった反対論も根強かった。棋士全員による評議委員会では1票差で賛成多数となったが、僅差であることを懸念した高川が理事長の三好英之と相談の上でこれを撤回し、高川ら賛成派理事は辞任した。また朝日側の根回し不足から、関西棋院も不参加を表明。朝日はついに断念し、朝日・毎日・読売の新聞三社と日本棋院で、名人戦の呼称は使用しないことなどを申し合わせた。朝日はこの代わりとして1953年から最高位戦を開始した。一方で、1956年まで呉清源の十番碁を開催していた読売新聞社も1957年に「実力名人を決める」と謳った日本最強決定戦を開始した。 その後日本棋院では、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった。1960年に渉外担当理事となった藤沢秀行は、この解決策として名人戦創設を計画する。藤沢はこの年の本因坊戦の挑戦者となるが、対局料が1局6万円という安さだったのもその意識に拍車をかけた。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院所属棋士や呉清源も参加する名人戦が読売新聞の主催で創設された。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。
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