最高位決定戦とは? わかりやすく解説

最高位決定戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 05:08 UTC 版)

大手合」の記事における「最高位決定戦」の解説

1949年6月藤沢庫之助大手合による初の九段昇段果たし唯一の九段となった本因坊秀哉死後名人位空白となっていた日本棋院では、同年10月名人規定にて、九段の者が大手合所定成績収めるなどの条件明文化し、従来九段位は即名人位意味していたのを、名人位段位から分離した。翌1950年2月には、日本棋院大手合には参加していなかったが十番碁などで抜群成績挙げていた呉清源九段推挙し2人九段史上初め存在する事態となった1950年には日本棋院関西棋院東西交流大手合実施4-6月まで10回戦が行われ、東軍3012敗2ジゴとなった1950年後期より、九〜七段の第一部、六〜四段第二部、三〜初段第三部三部制となる。東京関西中部間の対局では、上段者の所属地で対局することも不文律となった1951年からは年1期制となる。 1952年スポンサーある朝日新聞から、将棋順位戦仕組み大手合取り入れた名人戦制度提案され日本棋院棋士による投票では1票差で賛成上回ったものの、木谷実らの強固な反対があったことや、根回し不足による関西棋院不参加表明などにより、この提案撤回され高川格賛成派であった理事辞職することとなる。 この順位戦制の代わりとして1953年から最高位戦開始される。これは大手合の上にAクラスリーグ(最高位リーグ)を置き、その優勝者最高位とする棋戦制度。まず1953年に4名の八段による白黒2局ずつのリーグ戦と、七段による大手合により順位決定。この11位までで1954年リーグ戦行いメンバー入れ替え1955年に9名による第1期最高位戦リーグが行われた。第1期坂田栄男九段杉内雅男八段が6勝2敗で同率となり、前年度順位坂田第1期最高位となった第2期以降からはリーグ優勝者が前期最高位五番勝負行なった。ただこの棋戦には関西棋院参加しておらず、最高位戦日本棋院内ののだったこの間1954年度リーグ坂田栄男が、呉清源藤沢庫之助橋本宇太郎に次ぐ九段昇段木谷實1954年から病気のため休場していたが1956年第2期から復帰し九段昇段続いて最高位挑戦者となり、坂田からタイトルを奪う。最高位戦挑戦手合コミ無し行われたが、五番勝負最終局だけは先番コミ4目半で行われ第3期木谷-島村第5局大手合初のコミとなった1959年には日本棋院復帰した藤沢庫之助(朋斎)が参加、またリーグ戦中に杉内雅男九段昇段した。1960年には高川格宮下秀洋島村利博九段昇段し、九段量産時代となる。最高位決定戦は1961年第6期まで行われ読売新聞名人戦創設されたことをきっかけ朝日新聞スポンサー下りて終了する翌年からは大手合昇段のためのみの制度戻り、八〜五段までの第一部と、四〜初段までの第二部構成となってこれ以上昇段のない九段出場義務なくなった

※この「最高位決定戦」の解説は、「大手合」の解説の一部です。
「最高位決定戦」を含む「大手合」の記事については、「大手合」の概要を参照ください。

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