最高位決定戦
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1949年6月に藤沢庫之助が大手合による初の九段昇段を果たし、唯一の九段位となった。本因坊秀哉死後名人位が空白となっていた日本棋院では、同年10月に名人規定にて、九段の者が大手合で所定の成績を収めるなどの条件を明文化し、従来は九段位は即名人位を意味していたのを、名人位を段位から分離した。翌1950年2月には、日本棋院の大手合には参加していなかったが十番碁などで抜群の成績を挙げていた呉清源を九段に推挙し、2人の九段が史上初めて存在する事態となった。 1950年には日本棋院と関西棋院の東西交流大手合を実施、4-6月まで10回戦が行われ、東軍30勝12敗2ジゴとなった。1950年後期より、九〜七段の第一部、六〜四段の第二部、三〜初段の第三部の三部制となる。東京、関西、中部間の対局では、上段者の所属地で対局することも不文律となった。1951年からは年1期制となる。 1952年にスポンサーである朝日新聞から、将棋の順位戦の仕組みを大手合に取り入れた名人戦制度が提案され、日本棋院の棋士による投票では1票差で賛成が上回ったものの、木谷実らの強固な反対があったことや、根回し不足による関西棋院の不参加表明などにより、この提案は撤回され、高川格ら賛成派であった理事が辞職することとなる。 この順位戦制の代わりとして1953年から最高位戦が開始される。これは大手合の上にAクラスリーグ(最高位リーグ)を置き、その優勝者を最高位とする棋戦制度。まず1953年に4名の八段による白黒2局ずつのリーグ戦と、七段による大手合により順位を決定。この11位までで1954年にリーグ戦を行いメンバーを入れ替え、1955年に9名による第1期最高位戦リーグが行われた。第1期は坂田栄男九段と杉内雅男八段が6勝2敗で同率となり、前年度順位で坂田が第1期最高位となった。第2期以降からはリーグ優勝者が前期最高位と五番勝負を行なった。ただこの棋戦には関西棋院は参加しておらず、最高位戦は日本棋院内のものだった。 この間、1954年度リーグで坂田栄男が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎に次ぐ九段に昇段。木谷實は1954年から病気のため休場していたが1956年第2期から復帰し、九段昇段、続いて最高位挑戦者となり、坂田からタイトルを奪う。最高位戦は挑戦手合もコミ無しで行われたが、五番勝負最終局だけは先番コミ4目半で行われ、第3期の木谷-島村戦第5局が大手合初のコミ碁となった。1959年には日本棋院に復帰した藤沢庫之助(朋斎)が参加、またリーグ戦中に杉内雅男が九段昇段した。1960年には高川格、宮下秀洋、島村利博が九段昇段し、九段量産の時代となる。最高位決定戦は1961年第6期まで行われ、読売新聞で名人戦が創設されたことをきっかけに朝日新聞がスポンサーを下りて終了する。翌年からは大手合は昇段のためのみの制度に戻り、八〜五段までの第一部と、四〜初段までの第二部の構成となって、これ以上昇段のない九段は出場義務がなくなった。
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