最高司令官としての評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:45 UTC 版)
「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事における「最高司令官としての評価」の解説
マンネルヘイムのフィンランド最高司令官としての戦時の記録は評価が簡単ではない。今日でさえ、マンネルヘイムの大きな名声に対抗して戦争中の指揮内容はほぼ国家反逆であるという批判が存在する。こうした批判は主にソ連やフィンランドの共産主義者から来ている。おそらく最も簡単なのはマンネルヘイムの役割を政治家と軍司令官の2つに分けることである。 軍司令官としてのマンネルヘイムはおおむね成功した。彼の指導の下、フィンランド防衛軍はフィンランドをソ連の占領から守った。マンネルヘイムは兵士の生命を浪費しないように注意しており、不要な危険を避けた。おそらく彼の最大の短所は人を介して報告を聞くことを嫌うことである。アクセル・アイロのような多くの優秀な部下がいるにも関わらず、総司令部の部門の責任者がマンネルヘイムへ直接報告するよう求めたため、参謀総長である歩兵大将のエリック・ハインリッヒは役目がほとんど無かった。マンネルヘイムは仕事に圧倒され、結果として総司令部での部門の間の調整に苦悩した。1944年6月のソビエトのカレリア攻勢が予測できなかったことはマンネルヘイムが木を見て森を見ずの状態になっていたことが原因の1つとして示唆されている。負担を減らすため代わりに情報を集めて、作戦命令ができるような他の権威はいなかった。 冬戦争と継続戦争の間、マンネルヘイムと他のフィンランド指導者との間には問題が何度かあった。リュティは少なくとも1度、可能な限りよい歴史的評価を保とうと行動しているとマンネルヘイムを非難した。首相のエドウィン・リンコミエス(英語版)は死後に出版された回顧録で有名な芸術家にありがちな気性のむらや移り気な振舞いを非難した。マンネルヘイムが大統領に就任した際に首相を勤め、後に第7代大統領になったパーシキヴィはマンネルヘイムがすでに老齢であり常に平静を保てるわけではないと主張した。 一方でマンネルヘイムは政治に優れていたと言われる。彼は軍人であり、文民統制の原則に従ったが、フィンランドの中心人物であった。特に重大な問題はいつソ連と講和するかであった、早すぎればドイツの報復的な予防占領を招き、遅すぎればソ連にフィンランドが占領される。1942年にソ連の優位が明確になると、国の主権を守って平和へ導くためにマンネルヘイムは軍事力を蓄えた。
※この「最高司令官としての評価」の解説は、「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の解説の一部です。
「最高司令官としての評価」を含む「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事については、「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の概要を参照ください。
- 最高司令官としての評価のページへのリンク