旧南北イエメン統一
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「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の記事における「旧南北イエメン統一」の解説
サーレハ大統領は1990年に南北イエメンが統一した際の北イエメンの大統領であり、統一後の大統領にも就任した。本項ではイエメン統一の経緯に軽く触れつつ、統一プロセスにおいてサーレハ大統領がとった役割、その後1994年に起きた内戦でのサーレハ大統領の対応について整理する。 1990年、北イエメンとイエメン人民民主共和国(旧南イエメン人民共和国、以下南イエメン)が統一し、イエメン共和国が誕生した。当時の北イエメン大統領であったサーレハ大統領と南イエメンの国家元首であったアリー・サリーム・アル=ビード書記長が1987年に初めて会談し、南北間の自由通行に合意したことが統一の第一歩であった。 しかしながら、この統一は反対する勢力の拡大を恐れて急ピッチで進められたため、イエメン共和国は様々な不安定要素を抱えることになった。例としては、軍隊の再編成がなされず南北両軍が並存したことや、政府機関の人事が決まらず南北の行政が別々に機能していたことなどが挙げられる。また、1993年に行われた第一回国会選挙の結果により国民全体会議(GPC)とイエメン社会党(YSP)、イエメン改革党(イスラーハ)の三党からなる連立政権が誕生したが、YSPとイスラーハの政権内における対立が絶えなかった。対立の主な原因は、世俗・革新を掲げていたYSPがハーシド・バキール両部族連合への優遇政策に反発して急進的な改革を求めたところ、旧北イエメンの部族勢力とウラマー層からなる保守的なイスラーム政党であるイスラーハがそれに反発したからである。この対立関係の中、イスラーハの支持者によるYSP幹部への襲撃事件が続発したこと、YSPが保守的な政策を続けるサーレハ政権への不信感を募らせたことなどから、ビード副大統領をはじめとするYSP幹部の一部は1993年の夏以降アデンに引きこもり、連立政権は事実上崩壊した。この危機に対して国内外で様々な勢力が仲介を試みたものの失敗に終わり、1994年5月4日にイエメン内戦が勃発した。 内戦が本格化した翌日の5月5日、サーレハ大統領は非常事態宣言を発した。ビード副大統領の勢力(以下便宜上「南軍」と表記)を「統一を損なう分離主義者」と断じて「反乱軍」であるとし、南北間の内戦ではなく、あくまでも国際的な調停の必要がない国内問題として処理しようとした。圧倒的な軍事的優位に立つサーレハ大統領側の勢力(以下便宜上「北軍」と表記)は順調に南下し、開戦から1~2週間後には南軍の立てこもるアデンを包囲した。 一方劣勢に立たされたビード副大統領は、5月21日に「イエメン民主共和国」の建国を宣言することで、外交戦略によって戦況を立て直そうとした。この宣言への反応として、6月1日に国連安全保障理事会が開かれ、即時停戦などを求める決議が採択された。また6月4日には湾岸協力会議の外相会議において「イエメン民主共和国」の独立を暗黙裡に認める声明が発表された。サーレハ大統領はそのどちらにも内政干渉だとして強く抗議したが、6月7日から停戦に入る姿勢を明らかにした。しかし北軍は停戦を守らず、戦闘を続行した。その後もサーレハ大統領と北軍は国際連合やアメリカ合衆国、ロシアなどの調停を受け、停戦の合意や安保理決議の受け入れをその都度発表するも、実際に戦闘を停止することはなく、そのまま7月7日にアデンを制圧した。
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