日本人居留民の本土疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
「サイパンの戦い」の記事における「日本人居留民の本土疎開」の解説
サイパンは日本の委任統治領であり、サトウキビ栽培と砂糖の製造やカツオ漁を中心とする水産業を主要産業として栄えていた。準国策会社南洋興発株式会社の従業員やサトウキビ農家や港湾労働者などとして、主に沖縄県から移民が移住し、1943年8月の時点での人口は日本人(外地出身者含む)29,348人、原住民であるチャモロ人、カナカ人3,926人、その他の外国人11人となっていた。取り巻く戦況が厳しさを増し、日本本土との定期連絡船が途絶えているなかでも、サイパンは平穏であり、「南洋の東京」とも呼ばれた近代的都市のガラパンではデパートが営業を続け、「彩帆館」(彩帆はサイパンの日本名)という映画館兼芝居小屋では日本の古い映画が人気を集め、住民はカフェで現地栽培のコーヒー豆を焙煎したコーヒーを楽しみ、夜には「南洋梅」という銘柄のサトウキビで作られた日本酒で、近海で獲れたカツオを酒の肴にして宴会するほどの生活的な余裕もあった。 しかし、マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると、1944年(昭和19年)2月には兵員増強や物資補給の輸送船の帰りの船を利用して、婦女子・老人の日本への帰国が計画された。一方、16歳から60歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止された。疎開対象となった婦女子・老人に対しては引き揚げ命令が出され、日本への帰国対象者はマリアナ諸島各島からサイパンへと集結させられて、そこで日本に帰る輸送船に乗船した。しかし、3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの事件があった。その後は、補給船舶の帰路に便乗するなどして被害もなく疎開が続けられたが、6月4日には「白山丸」と「千代丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈されて128人が死亡している。 しかし、日本政府も軍の楽観的な見通しを鵜呑みにして、サイパンへの侵攻はまだ先と考えており、南洋庁長官の細萱戊子郎に本庁をパラオからサイパンに移したらどうかと打診していたほどで緊迫感はなかった。また、住民のなかには軍と運命をともにすると疎開を拒否する婦女子もおり、最終的には疎開はあまり進まず。アメリカ軍上陸時点での在留邦人は約20,000人と推計されている。 最後の疎開となったのは第4611船団となったが、上陸前のアメリカ軍艦載機による空襲が始まってからの出航となったので、徹底的にアメリカ軍艦載機から攻撃されて、輸送船15隻、護衛艦11隻の船団のうち無事であったのは輸送艦1、護衛艦1に過ぎず、輸送船に乗船していた多数の婦女子・老人が死亡した。その総数は不明ながら、沖縄戦前にアメリカ軍潜水艦に沈められた学童疎開船「対馬丸」での犠牲者1,500人を上回る数千人にものぼったという証言もある。
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