日本に輸入されたFw 190 A-5
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:32 UTC 版)
「フォッケウルフ Fw190」の記事における「日本に輸入されたFw 190 A-5」の解説
『航空ファン (雑誌)』へ寄稿された文によれば、当時陸軍航空審査部飛行実験部の部員(テスト・パイロット)であった黒江保彦陸軍少佐は、多摩陸軍飛行場(福生飛行場、現横田基地)において、日本陸軍が輸入したFw 190 A-5の試験に携わった。意見によれば、Fw 190の旋回性能は大したことはないが快速を誇り、また安定性もよく、出足(加速力)と突っ込み(降下時の初期の加速力)の早さは他に比肩するものはなし、というものであった。実際に三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」と模擬空戦を行なってみたところ、急旋回しようとするとすぐに振動が発生し高速失速を起こす状況から、格闘戦を考慮した日本機とは旋回戦において勝負にならなかったと見られる。黒江はまた、本機の整備が容易で油漏れも故障もほぼ完全になかったことに言及した。また終戦(1945年8月)直前、Fw 190 A-5・Bf 109 E-7・P-51C・P-40(共に鹵獲機)・四式戦「疾風」の5機を用い、高度6,000mで速度競争が行なわれた。競争開始直後は黒江の乗ったFw 190とBf 109がリードしたものの、1分後にはP-51が迫り、3分後には抜き去った。黒江は、Fw 190は水平最高速度ではP-51には適わないものの、出足の速さはどの機種にも負けなかったと結んでいる。この速度競争については押尾 & 野原 (2002) でも言及されており、やはり最初はFw 190がリードしたものの、3分後にはP-51に追い抜かれている。ちなみに最終的な順位は首位がP-51C、二位は同率でFw 190 A-5および四式戦「疾風」、以下三式戦「飛燕」、P-40の順だった。 このFw 190 A-5は、カタログスペックであれば最大速度は670km/hとされているが、黒江の別の文献によれば少なくともこの個体は600km/hを少々上回る程度の速度しか出ず、最大速度624km/hの四式戦「疾風」より劣速であった。ただしダッシュ力が大いに勝るため、四式戦「疾風」ではなかなか追いつけるものではなかった。だがどう割り引いて見ても700km/hを発揮していたP-51Cを用いれば、Fw 190 A-5を追い詰めることは訳のないことであり、黒江はドイツの敗因をここに見たとしている。 1943年10月、陸軍航空審査部飛行実験部の部員である荒蒔義次陸軍中佐・神保進陸軍少佐によりテスト飛行が行われた。Fw 190は電気コントロールで油圧の日本機に比べ軽快な戦闘機だったこと、急降下速度は形状的特性からBf 109や三式戦「飛燕」には劣ったがドイツの工業水準を垣間見る事が出来た、とある。別の文献では荒蒔中佐の所感として、離陸時の直進性、および上昇力と加速力の良さにも言及し、飛行性能は四式戦「疾風」にも五式戦にも似ていて、その中間辺りであったとし、電気駆動部の確実性を評価した。また荒蒔中佐はテストした外国機の内、Bf 109 E-7、Fw 190 A-5、P-51Cの3機種を優良としたが、その内でもFw 190が最も優秀であるとした。荒蒔中佐は戦後の手記で視界の良さを評価したほか(前述)、上昇力と操縦性を絶賛し、格闘戦でなら四式戦「疾風」に勝るであろうとした。 また竹澤俊郎准尉は各機構が電動であることを評価し、Fw 190も三式戦「飛燕」もBf 109より上であるが、エンジンの信頼性が高いFw 190の方が良い、しかしP-51は速度がありさらに良い、としている。 このFw 190 A-5のエンジン装備と空力処理の方式は、後に五式戦闘機の開発時に参考とされた(前述)。
※この「日本に輸入されたFw 190 A-5」の解説は、「フォッケウルフ Fw190」の解説の一部です。
「日本に輸入されたFw 190 A-5」を含む「フォッケウルフ Fw190」の記事については、「フォッケウルフ Fw190」の概要を参照ください。
- 日本に輸入されたFw 190 A-5のページへのリンク