新聞連載版
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1883年1月24日から高知の自由民権派の新聞『土陽新聞』9月27日まで64回のエピソードに分ける形で連載された。 紫瀾は『土陽新聞』の前身に当たる『高知新聞』(第2次、1880年7月5日創刊)で編集長を務め、同年9月19日から翌年9月2日まで、自身初の小説とされる『南の海血しほ(お)の曙』を、72回にわたって「南國野史」の筆名で連載した。土佐勤王党のメンバーを主役に幕末史を綴る内容だったが、私淑していた板垣退助の東北遊説に付き添うことになり、未刊のまま中絶した。この作品では坂本龍馬は連載途中の1エピソードに登場するのみで、この回の文中に「(龍馬を)後編の好材料となさんとす。因て此に其端緒を叙し暗に他日の伏線たらしむ」と紫瀾は記し、別途大きく取り上げる意図があることを示していた。 紫瀾は1881年12月に高知に戻ったのち、1882年1月に「民権講釈師」の活動を開始したが、その2日目の講釈で枕に話した内容を不敬罪に問われた。本作連載開始当時は公判中で、大審院での上告棄却により3月に刑が「重禁錮3か月と罰金20円、監視6か月」と確定し、3月31日から6月29日までを獄中で過ごした。これに伴い、掲載は3月30日の第53回から7月10日の54回まで中断している。 物語は井口村刃傷事件から始まり(龍馬の登場は第4回から)、その後に改めて龍馬の生い立ちからその活動を追う。近江屋事件で龍馬が暗殺された後、徳川慶喜による大政奉還と長岡謙吉による讃岐国平定を描き、最終回(の最後)は長岡の死と関係者のその後、そして龍馬の縁者である坂本南海男が立志社で自由民権運動の遊説にあたる姿を「叔父龍馬其人の典型を遺伝したるあるを徴すべく、或は之を路易(るいす)第三世奈波侖(なぽれおん)に比すと云ふ」と描いて締めくくっている。 新聞連載時の本作では、龍馬が登場しない回が掲載68回中26回もある。特に後半(四境戦争以後)は、長岡謙吉や中岡慎太郎を取り上げて描く回が複数ある。また「龍馬なし」の回での言及は少ないものの近藤長次郎も複数の回で登場している。このほか、龍馬の没後も明治維新に関わり、連載当時は自由党の幹部だった板垣退助や後藤象二郎も登場する。これは本作が『南の海血しほの曙』に続いて「土佐勤王党の群像劇」を描く構想の一環であったことに由来する。加えて、紫瀾は『南の海血しほの曙』の段階から、土佐勤王党の活動を「下士(郷士)による封建制度への抵抗」とみなし、藩閥政府に対抗する自由民権運動をその再現とする視点を明言していた。本作での板垣・後藤の登場は、彼らが土佐勤王党の継承者であることをアピールする狙いがあった。知野文哉は、連載当時板垣・後藤が伊藤博文や井上馨の差し金で欧州視察に出かけたことで自由党内が紛糾・分裂状態に陥ったことがさらにその背景にあると推測した。知野は、紫瀾が窮地に立った板垣・後藤に運動指導者としての「正嫡性」を与えて「批判から救済」することを意図していたと論じている。 紫瀾が執筆に際して利用した情報源に関しては、木戸孝允から龍馬に宛てた書簡を坂本南海男から見せられたという内容が文中にあり、坂本南海男は情報源の一つと考えられている(ただし、坂本南海男の生い立ちから、その多くが伝聞であったと推測されている)。また薩長盟約に関する記述には、1872年に刊行された椒山野史の『近世史略』に言及した箇所があり、参照していたとみられる。
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