文字的文化への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:08 UTC 版)
説経節が、中世末から近世にかけての時期、にわかに芸能として脚光を浴びるようになったのは、操り芝居との提携という契機もあったが、これまで延べてきたように、説経節の語りそのものに、人びとを惹きつける独特の魅力や時代を越えた普遍性が備わっていたからであろうと考えられる。 慶長年間(1596年-1615年)の日本においては、一部の人は別として大多数の人びとは文字や書籍になじまない生活を送っていた。もとより写本はさかんになされていたし、絵巻物よりも簡便な奈良絵本も当時さかんに製作されていた。また、南蛮人や朝鮮半島からもたらされた新しい印刷技術もあって活字本も刊行されていたのであるが、しかし、それは必ずしも社会的に広汎におよんだものではなかった。それが、寛永年間(1624年-1645年)に入り、従来の木活字に代わって、原稿そのままを木の板に彫って印刷する整版印刷がなされるようになると、出版は完全に商業ベースに乗った。これにともない、出版の大衆化が大いに進み、一般庶民を読者とする大衆文学も読まれるようになったのである。整版印刷は、漢字を自由に用い、読み仮名なども付して読みやすくすることができるうえ、はるかに低廉な価格で印刷物が刊行でき、版元の経営を安定させたのであった。 こうして進行した出版大衆化もあって、民衆の側にも文字に対する旺盛な学習意欲が生まれた。慶長より約100年後の宝永3年(1706年)の浄瑠璃『碁盤太平記』には、大星力弥が文盲の岡平を笑って「世には無筆も多けれども、一文字引く事も読む事もならぬとは、子供に劣った奉公人」と語る場面が出てくるまでに至り、その間の民衆の識字率の向上にはめざましいものがある。 ところが、慶長の頃にあっては一般民衆はまだまだ文字の文芸からは遠い世界にあり、口承文芸とくに語りものの世界にあったのである。そして、寛永期以降の出版大衆化の進行は次第に文芸における文字の比重を増大せしめた。「古説経」といわれる寛永から明暦にかけての説経正本は、このような経緯のなかで生まれたのである。 そしてまた、説経節が18世紀に入って急速に衰退していくことは、都市を中心とした民衆の文化が、口頭的な文化から文字的な文化へと大転換を遂げたことと軌を一にしているのであり、これは文化史上の大きな画期であった。もとより、青森県のイタコ祭文や新潟県の瞽女唄など、かつての説経節と形式や素材において共通点をもつ口承文芸が細々と続いてきたことは確かではあるが、とはいえ、これらの芸能がその内容においてひじょうに衰弱してしまったものであることは否定できない。 これに対し、かつての説経節とりわけ「古説経」と呼ばれる説経節は、日本の口承文芸史上高度に花開いた作品群であり、ある意味では最後の鮮光とも呼びうる存在である。それが、幸いにも製版印刷の普及の時期にあたっていたため、文字によるテキストとして後世に伝えられたのである。
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