文化学院創設
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長女アヤの小学校卒業を機に伊作はあらゆる女学校などを見て回るが自分の教育方針に適する学校がないと考え、娘のために自らが考える真の学校教育を模索し、さまざまな芸術家、文化人との交流のなか、歌人与謝野晶子、画家石井柏亭に当時の学校令に縛られない自由でより創造的な学校を作ることを打ち明ける。両者は大いに賛同し、1921年、ホテル用地として伊作が買ってあった駿河台の土地に文化学院を創立。当時の中学校令や高等女学校令に縛られず、一流人たちによる芸術・学問の教育を行う快活で自由な学校をめざした教育を開始した。国との方針が違ったため補助金はなく、誰からの援助も受けず、すべて伊作自身の資産で運営された。当時、与謝野鉄幹が慶応義塾の教授に就いたこともあり、文化学院は慶應義塾の構成に則って作られた。そのため文化学院の開校式には文部次官と共に慶應義塾塾長も臨席。また、文化学院の歴代教員などの関係者には慶應義塾出身者が多い。広辞苑にのる数少ない学校の一つとなった。 校舎は伊作自身の設計で建てられ、当時の学校建築の常識を離れ、英国のコテージ風の建て物にし、かなりの話題を呼んだ。文化学院の教員としてさまざまな文化人、芸術家たちを招き、文学部長に、与謝野鉄幹、晶子夫妻や、菊池寛、川端康成、佐藤春夫などがついた。美術は、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎、正宗得三郎、棟方志功、ノエル・ヌエットらが、音楽は、山田耕筰、エドワード・ガントレットなど、ほかにも、北原白秋、有島武郎、芥川龍之介、遠藤周作、吉野作造、高浜虚子、堀口大學、美濃部達吉ら数々の著名人が文化学院で教えた(2018年閉校)。 1923年、関東大震災で校舎が全焼。校舎に保管されていた、与謝野晶子が14年かけて現代語に翻訳した源氏物語が灰となる。校舎はかろうじて残った土台の上に、新しく積み上げて作り変えられた。現在、長野県軽井沢町のルヴァン美術館に創立当時の校舎が復元され、創立当時をうかがい知ることができる。 1943年、反政府思想や天皇を批判、自由思想によって不敬罪で拘禁され、文化学院の閉鎖命令を受ける。伊作は半年間投獄され、釈放後も裁判やり直しを求めたが、終戦の混乱で自然回避した。戦後、文化学院を再興する。戦時中、文化学院は捕虜収容所となっていたため、米軍の空襲を免れ、そのおかげで近くの山の上ホテルも焼けずに済んだという。しかし同じお茶の水にあるアテネ・フランセは空襲で焼失し、戦後は文化学院の校舎の一部を借りて講義を再開、1962年に新校舎が完成するまで文化学院内で講義が行われた。 学校経営を娘たちに譲って以降は、校舎の一部を寝起きに使ったり、陶芸製作に使ったりしていたが、実務からは離れ、1963年に78歳で亡くなった。
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