文化学院創設とは? わかりやすく解説

文化学院創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:48 UTC 版)

西村伊作」の記事における「文化学院創設」の解説

長女アヤ小学校卒業機に伊作あらゆる女学校などを見て回る自分教育方針適す学校がないと考え、娘のために自らが考え真の学校教育模索しさまざまな芸術家文化人との交流のなか、歌人与謝野晶子画家石井柏亭当時学校令縛られない自由でより創造的な学校作ることを打ち明ける両者大い賛同し1921年ホテル用地として伊作買ってあった駿河台土地文化学院創立当時中学校令高等女学校令縛られず、一流人たちによる芸術・学問の教育を行う快活自由な学校めざした教育開始した。国との方針違ったため補助金はなく、誰からの援助受けず、すべて伊作自身資産運営された。当時与謝野鉄幹慶応義塾教授就いたこともあり、文化学院慶應義塾構成則って作られた。そのため文化学院開校式には文部次官と共に慶應義塾塾長臨席また、文化学院歴代教員など関係者には慶應義塾出身者が多い。広辞苑にのる数少ない学校一つとなった校舎伊作自身設計建てられ当時学校建築常識離れ英国コテージ風の建て物にし、かなりの話題呼んだ文化学院教員としてさまざまな文化人芸術家たちを招き文学部長に、与謝野鉄幹晶子夫妻や、菊池寛川端康成佐藤春夫などがついた。美術は、石井柏亭有島生馬山下新太郎正宗得三郎棟方志功ノエル・ヌエットらが、音楽は、山田耕筰エドワード・ガントレットなど、ほかにも、北原白秋有島武郎芥川龍之介遠藤周作吉野作造高浜虚子堀口大學美濃部達吉数々著名人文化学院教えた2018年閉校)。 1923年関東大震災校舎全焼校舎保管されていた、与謝野晶子14年かけて現代語翻訳した源氏物語が灰となる。校舎はかろうじて残った土台の上に、新しく積み上げて作り変えられた。現在、長野県軽井沢町ルヴァン美術館創立当時校舎復元され創立当時うかがい知ることができる。 1943年反政府思想天皇批判自由思想によって不敬罪拘禁され文化学院閉鎖命令を受ける。伊作半年投獄され釈放後も裁判やり直し求めたが、終戦混乱で自然回避した戦後文化学院再興する戦時中文化学院捕虜収容所となっていたため、米軍空襲免れ、そのおかげで近く山の上ホテル焼けずに済んだという。しかし同じお茶の水にあるアテネ・フランセ空襲焼失し戦後文化学院校舎一部借りて講義再開1962年新校舎完成するまで文化学院内で講義が行われた。 学校経営娘たち譲って以降は、校舎一部寝起き使ったり、陶芸製作に使ったりしていたが、実務からは離れ1963年78歳亡くなった

※この「文化学院創設」の解説は、「西村伊作」の解説の一部です。
「文化学院創設」を含む「西村伊作」の記事については、「西村伊作」の概要を参照ください。

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