文化学院から社会運動へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 04:08 UTC 版)
東京では女子聖学院の寮に住みながら文化学院に通い、与謝野晶子、末弘厳太郎らの教員たちから感化を受ける。一方、在学中に学連運動の勉強会にも参加する。光は警察に検挙されることなく文化学院を卒業して、女子聖学院附属幼稚園の教員を務める傍ら、日本プロレタリア美術家同盟研究所に出入りした。この結果幼稚園に警察が調べに来たことで職を追われる。研究所に漫画講師として通っていた八島太郎(岩松淳)と知り合い、1930年4月に兵庫県御影町の実家にて(父の勧めにより)簡素な結婚式を挙げた。その半年後から光は南葛飾郡(現・葛飾区)で小作争議の支援としてピオニール運動などに加わる(全国農民組合東京府連合会書記だった)。この時期には「新井光子」を名乗っていた。また、「プロレタリア美術展」に夫の太郎とともに作品を出展した。こうした状況で日本プロレタリア作家同盟や日本プロレタリア演劇同盟等の参加者の知遇を(夫ともに)得て、特に中條百合子とは親密な関係となる。1931年には長男・正(しょう)が誕生する。だが、正は社会主義運動との両立のために預けた先で夭逝する。正が死亡したのは1933年5月だった。二人目の子どもを宿してまもなく、光は夫ともに大崎警察署の特別高等警察により検束される。逮捕されたのは1933年6月で、日本プロレタリア文化連盟(コップ)弾圧の最終段階で手が及んだものだった。拘束は3か月に及び、転向手記を書けば釈放されるという誘いにもすぐには応じなかったが、父が面会に来たことを期に(胎児が成長して狭い雑居房での生活に不自由したこともあって)執筆に応じ、1933年10月に釈放された。御影の実家に戻り、12月10日に次男の信(マコ岩松)が誕生する。太郎は遅れて翌年2月に釈放されると光の元に身を寄せた。
※この「文化学院から社会運動へ」の解説は、「八島光」の解説の一部です。
「文化学院から社会運動へ」を含む「八島光」の記事については、「八島光」の概要を参照ください。
- 文化学院から社会運動へのページへのリンク